2013年8月24日、僕は、1968年10月24日にタイムスリップしていた。NHKがメキシコ・オリンピック、3位決定戦で日本代表が銅メダルを獲得したフルタイムの映像を放送することになったからである。45年もの歳月を経て、日本国内で初めて紹介されるのである。
自宅で楽しもうと考えていたところ、僕も会員であるサロン2002の本多克己氏から上映会を実施するとの連絡を貰った。当時、高校2年生であった僕にとっては、知らないことを聞けることを楽しみに感じて、会場に行った。土地勘のない芦屋が会場、道に迷い、大汗をかいて時間に間に合った。目的は、親交のある賀川浩氏の詳細な当時の話を聞けることにあった。そして、やはり、親交のある細谷一郎氏が解説のひとりとして、そこにはいた。
僕が読売サッカークラブ入りしてサッカー界で活動し始め、メキシコ・オリンピック当時の長沼氏、岡野氏、平木氏、丸山氏、選手の方々とお付き合いができるようになったのは、当時から十年を過ぎた頃からであったと思う。協会の要職にあったり、ライバルチームの監督になっていたので、今回、当時のプレーを見ることができて感慨深いものがある。
賀川氏の適切で正確な記憶に基づく話により深く興味が増し、細谷氏が最終選考のひとりであったことを知らなくて興味が更に倍増した。釜本邦茂氏のワールドクラスレベルのストライカー、杉山隆一氏の瞬間的なものも含めた速さ、鎌田光夫氏、可愛がっていただいた宮本征勝氏、後に、浦和レッズで上司であった森孝慈氏、横山謙三氏ほかのディフェンスも、大きなインパクトを感じた。
高校生ながら洋書を読みあさっていた僕は、釜本氏と横山氏がドイツのクラブを中心に、杉山氏がアルゼンチンのクラブからオファーを貰っていたことを知っていたが、賀川氏の話が多過ぎて紹介しきれないが、釜本氏の話で初めて聞くことがあったので、面白かった。
1966年、ロンドン・ワールドカップでイングランドは優勝した。決勝の西ドイツ戦、ジョフ・ハーストがハットトリックを成し遂げ、ハーストの名は世界に轟いた。
賀川氏から、日本代表がオーストラリアに遠征した時、3戦して1勝1分1敗であったそうであるが、賀川氏の友人であるオーストラリアの著名な記者が、アジアにもハーストと同じレベルの選手がいる、カマモトだとして記事を書いたことを聞き、新鮮にも感じた。実は、僕には大好きなライターがいる。イングランドのBrian Granville(ブライアン・グランヴィル)だ。彼が、1969刊の本の中の一項目で”I was born too early.”、早く生まれ過ぎてしまったね。釜本氏を7ページに渡り特集した。高校生の僕にとっては、世界中のスーパースターの仲間入りをしたものと実感した。後に、恩師的な存在の牛木素吉郎氏が代筆したことを知った。釜本氏を巡るメディアは、凄まじく期待するほどの新星の出現と捉えていたのであろう。
メキシコのポゼッション率が高く、釜本氏の一発に戦術を取っていたのか、GK横山氏の俊敏なキックやフィードが僕には最も印象に残った。一つ年上の当時はブラジル人であった与那城ジョージ氏に、メキシコ・オリンピックの話をしてみた。何も記憶もないし、興味などなかったよ。ワールドカップは、別だけれどね。これが、当時のサッカー強国とその他との違いであったのかと思わされる。
日本サッカーの父として知られるデットマール・クラマー氏は、メキシコ・オリンピック後、UEFAチャンピオンズリーグの前身、チャンピオンズカップでバイエルン・ミュンヘンの監督として連覇を成し遂げている。賀川氏の話では、西ドイツ代表選手を6名抱えてタイトルを獲れたことより、無名の日本代表が銅メダルを獲れたことの方が嬉しいと語っているとのこと。
チャンピオンズカップに優勝することは、”月へ自転車で行くことよりも難しい”、とコメントした名監督がいたが、当時、サッカーがマイナーな日本は、メキシコでは、”火星に自転車で行けてしまった”、のではないかと思ってしまった。