トップページ | 2010年7月 »

2010年6月

美しく進化

2010/06/29(火)

 数時間後、いよいよパラグアイ戦のキックオフを迎える。気持ちが高まるばかりで、落ち着かない。

 四半世紀前のことが、走馬灯のように頭の中をよぎっている。思い出されるのは、僕自身が日本サッカーのプロ化に向けた活動をいろいろな人々としていた頃のことだ。アマチュアからプロへ、それには、筆舌に表すことのできないほど大きなエネルギーを必要とした。プロ化の一番大きな目標は、日本代表をワールドカップに出場させることであった。Jリーグも誕生して、人間に例えると成人式間近にならんばかりまでに成長を遂げてきた。プロ化に携わった人々は、僕と同じようにベスト8を狙うパラグアイ戦のキックオフを感慨深く迎えつつあるものと思う。そして、日本代表が美しく進化して欲しいと思わずにはいられない。
 以前、ブラジル人の友人と次のような会話をしたことが思い出される。ブラジルは、真の意味でサッカーのプロ化を実現したのが1937年頃のこと。13年後の1950年、ブラジルはワールドカップを自国開催し、悔しい準優勝に終わった。そして、その後、8年の年月を経て、1958年、スウェーデン大会で初優勝を成し遂げた。ペレがワールドカップにデビューし、サンバ・サッカーが世界を席巻した時代である。前述のブラジル人の友人は僕に、「ブラジルだって、ワールドカップ優勝まで20年ほどかかっているんですよ」と語っていた。

 いろいろと啓蒙を受けているジャーナリスト、賀川浩氏と歓談した際、僕は同様なことを日本代表が成し遂げたことを教えて頂いた。日本サッカー協会の設立は1921年、日本代表は15年後のベルリン・オリンピックで優勝候補のスウェーデンに勝っていると。
 ブラジル人の友人も賀川氏も、日本代表が南アフリカのワールドカップで大躍進するかもしれないことを密かに期待していたのかもしれない。

 今大会が始まって、高地対策の気圧問題や公式球ジャブラニの影響から、キックの精度が取りざたされている。これに関しては、いろいろな友人からの質問に、ボールには慣れてくると答えていた。日本代表は、大会全体のFKからの得点の三分の二を決めている。南米のチームの好調さについては、南米予選ではボリビア、コロンビア、エクアドルと戦う時は南アフリカの海抜よりも更に高地である。高地対策に、敏感になっていなかった。ブラジルもアルゼンチンも、本国でのミニ合宿後いち早く南アフリカ入りをしている。しかも、好調である。
 レベルの高い個人技と組織力を発揮して、オランダドイツも素晴らしいゲームを展開している。攻撃的か守備的かの差異は存在するが、今大会でのアルゼンチンの攻撃力に注目している。メッシを始め、攻撃陣にタレントが多すぎるほどいるからだ。しかし、僕の私見では、最もバランスが取れて”美しく進化”しているチームはセレソン、ブラジル代表のように思えてならない。現在、セレソン(Seleção)はペンタ・カンぺオン(Penta Campeão)、ワールドカップで5度も優勝している。今大会、セレソンは エキサ(Hexa Campeão)になるべく宿命を背負って戦っている。それは、2014年、2度目のワールドカップ自国開催を更に盛り上げるために、エプタ(Hepta Campeão)、7度目の優勝の道しるべとするべく南アフリカにいるように思えてならないからである。パラグアイとの試合結果をポジティブなものにしてくれると信じてサムライブルーに大いに期待することは当然として、そして、次回2014年大会、5度目の出場にも更なる高い希望を抱きたい。

固定リンク | スポーツ | コメント (0) | トラックバック (0)


懐かしく応援

2010/06/29(火)

  日本代表の快進撃に、胸が高まる至福を感じながらワールドカップを楽しんでいる。グループリーグは終わってしまい、間もなく準々決勝を迎える。サムライブルーが準々決勝に進出できるのか、そしてスペインポルトガルと対戦できるのか等など興味は益々大きくなる。

  僕は、南アフリカ大会で個人的に特別な関心を抱いてくる国が三つあった。ブラジルアルゼンチンオランダといった優勝候補の国々や。もちろん日本、そして隣国の韓国への興味は当然あるものの、それとは異なった意味で親近感を抱いている監督が率いる国だ。そしてその監督たちは、いずれも僕が浦和レッズに所属していた時代に出会った監督である。

  まず最初に紹介したいのはポルトガルの監督、カルロス・ケイロス氏。現在、この原稿を執筆している段階では神のみぞ知ることではあるけれど、準々決勝で日本とポルトガルが対戦することに期待したいと思っている。
 彼が名古屋グランパスの監督として来日する以前、僕は、ポルトガルで浦和レッズのプレシーズン合宿をアレンジしたことがある。ポルトガル滞在中のメインイベントは、フィーゴも出場したスポルティング・リスボンとの親善試合であった。そして当時、スポルティング・リスボンの監督だったのがカルロス・ケイロス氏だ。試合当日、エスタジオ・ジョゼ・アルバラーデには数千人の観客が集まってくれた。記憶では、試合は3-1で浦和レッズが負けた。
 この試合には、スポルティング・リスボンは特別な意味を持たせていた。国際親善試合としてだけではなく、入場料を麻薬撲滅運動の組織に寄付するという目的を持っていたのである。その目的の高尚さに相応しく、爽やかな雰囲気の試合であったことを記憶している。
 それが縁で僕は、カルロス・ケイロス氏と親しくなり、そして、会長などクラブ幹部とも、その後も交流を重ねた。その後、リスボンへは数回訪れることにもなったほどである。
 カルロス・ケイロス氏が率い、クリスチャーノ・ロナウドを擁して初優勝を狙うポルトガル代表と日本代表が戦えることになれば、これも、また、至福であると思わずにはいられない。

  また、グループ・ステージで善戦しながら南アフリカを既に離れてしまったスイス代表。この国の監督、オットマール・ヒッツフェルト氏も懐かしい人物である。同氏がボルシア・ドルトムント監督時代に、付き合いがあった。
 僕は上司と、新戦力となり得る選手をスカウティングするために長期に渡り、ヨーロッパの国々を訪ねていた。ドルトムントとユーヴェントスのUEFAチャンピオンズ・カップ準々決勝の試合をウェストファーレン・シュタジオンで観戦した。そして翌日、僕らはヒッツフェルト監督と会う約束をしていた。物静かで聡明そうな同氏に対して僕は、極めてストレートに、ある選手を「貸して下さい」とお願いをしてしまった。その選手は、レギュラーを期待されていた点取り屋であったが、同氏の紳士の振る舞いで、軽く僕らの要望はかわされてしまった。今回のスイス代表が見せた堅守のごとく、僕らは攻め手を失ってしまったことが思い出される。

  イングランド代表は、不運な判定もありドイツに敗れてしまった。ファビオ・カッペッロ監督とは、同氏がACミランの監督をしていた時に出会った。独りでミラノに滞在し、ACミラン幹部とある交渉をしていた時のことである。
 試合前日、練習場のあるミラネッロを訪ねた。マルディーニ、アルベルティーニ、ボバン、バレージなど錚々たるメンバーを取り揃えていた時代だ。練習後、カッペッロ氏は、記者会見を後回しにしてまでして僕を昼食に誘ってくれた。その時食べたチーズをメインにしたリゾットと白ワインは、僕にとって今までで一番美味しい食事のひとつとして記憶されている。

  これら三人の監督は、共通して僕にリスペクトと優しさを示してくれた。三監督の今後の活躍を祈りつつ、南アフリカからテレビで見る彼らとの出会いを懐かしく感じてしまった。

固定リンク | スポーツ | コメント (0) | トラックバック (0)


ベール

2010/06/18(金)

 1次リーグ予選に初登場するブラジル対北朝鮮の試合を、とても楽しみにしていてTV生中継を観戦した。関心を呼ぶことが色々とあって、特別な興味を抱いていたからである。

 ひとつには、世界中のマスメディアにおいてさえ、北朝鮮代表の情報が余りにもなさ過ぎてベールに包まれた神秘さを助長していたことがあった。一方、セレソン、ブラジル代表については、世界中で名の知れた選手たちの集団であるにも関わらず、ドゥンガ監督は非公開練習の機会を多く設けていた。ブラジルでは、伝統的に開放的で練習を公開してきた。ドゥンガ監督は、その伝統に逆らうことをしていると多くのジャーナリストから批判の的になっていた。あるジャーナリストは、「ブラジルだけが1次リーグ予選で4つの敵と対戦しなければならない。」と記事にしている程である。北朝鮮、コートジボワール、ポルトガル、そして、4つ目の対戦相手がマスメディアであるとの論旨である。つまり、ドゥンガ監督は、セレソンをベールに包みこもうとしたのではないかと僕は感じていた。

 北朝鮮代表は2回目のワールドカップ出場であるが、前回、出場した1966年のイングランド大会でセンセーショナルなデビューをしたことは周知の通りである。イタリア代表、アズーリは北朝鮮に敗れて、帰国時に屈辱的にトマトを投げつけられたという話は有名である。北朝鮮は、決勝トーナメントでポルトガルに敗退するが、一時は3-0のリードも奪っていたことを後々に知った。1966年大会は、僕の世代では知る由もなかったからである。

後に、白黒の映像を観る機会を得ることはあったが。

 実は、30数年前、東京の国立競技場で北朝鮮のクラブチームの試合を観たことがあった。「ピョンヤン4.25」というチームと「日本選抜」。「ピョンヤン4.25」は、66年のイングランド大会の代表そのものと学生であった僕はマスメディアで情報を得ていた。「日本選抜」は、当時の日本サッカーリーグ選抜そのものであったと記憶している。釜本邦茂氏やネルソン吉村氏が中心の日本代表のような存在であった気がしていたが、何故か、日本代表ではなく「日本選抜」であったと記憶している。当日、国立競技場には、25,000人から30,000人程の観客が訪れていたように記憶している。チケットを購入しようと入場券売り場に並んでいると、見知らぬ在日の人が僕に話しかけてきた。知人が来られなくなったので、チケットを安くするから買ってくれないかということであった。学生の僕としては、安くなるに越したことはないとチケットを手に入れた。大失敗をしでかしてしまった。僕が入手したチケットはメインスタンド中央の見やすい席であったが、周囲は在日の人ばかり。ハングルを聴きながらの観戦となってしまい、僕は日本での完全なアウェイを対戦することになってしまった。「ピョンヤン4.25」は、強かった。試合は、1-0で日本が負けたと記憶している。この「ピョンヤン4.25」が軍隊のチームであったので、現在の「425体育団」であると思われる。

 そのようなことが頭をよぎりながらブラジル対北朝鮮を観始めた時、国歌を聴きながらピッチ上で涙するチョン・テセ選手の姿に、何故だろうと不思議に感じていた。後日、神戸市在住の友人である元北朝鮮代表FW、呉東根(オ・ドングン)氏に、チョン・テセ選手の行動を訊いてみた。呉氏は、「セニョール、チョン・テセは在日であるからして感動の余り、目からではなく心から涙したのですよ。」と、説明してくれた。ワールドカップは、世界中のすべての人々がそれぞれの思いを包み込んでいるものであると感慨に耽ってしまった。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


ドイツ代表開幕戦

2010/06/14(月)

ドイツ代表が、重圧のかかるワールドカップ開幕戦での緊張感を払拭するようなセンセーショナルな大勝で好スタートを切った。相手は、アジア予選で堅守を誇るオーストラリア代表。ヨーロッパでプレーする選手で挑んだドイツ戦、オーストラリアは手も足も出せずに完敗してしまった。

 アグレッシブに縦へ縦へと組み立てていく速くて鋭いパスが見事に繋がって、多くの得点チャンスを作り出すゲルマン・サッカーに衝撃を受けた方も少なくないと思う。負傷によりワールドカップ出場を断念したバラックの存在を感じさせないゲームメーク、得点能力を示した弱冠20才のトーマス・ミューラーは、ドイツの快進撃を予想させるに十分だった。そして、ゲームコントロールをさりげなく素晴らしい運動量とテクニックを披露したトルコ系MFメズート・エジル、21才。この2選手は、各世代のドイツ代表として将来を嘱望されていたが、早くも開幕戦でその能力の高さを見せた。

 そして、4-0の大勝の内の3得点を挙げた選手が、純粋のドイツ人ではなかったことが印象深い。先制点を挙げてチームを勢いつかせたルーカス・ポドルスキー、2点目を素晴らしいポジショニングでヘディングを決めたミロスラフ・クローゼ、どちらも、元々はポーランド人である。この2選手は、ポーランドで生まれたが、幼少の頃、両親がドイツに移住したため、サッカーを本格的に始めたドイツ代表を選んだ。面白いことに、2選手には驚くような共通点がある。父親がプロのサッカー選手であり、母親がハンドボールの名選手であった点だ。とりわけ、クローゼの母親、バルバラは代表選手でもあったという。

 ワールドカップ初出場を叶えたカカウは、本来はブラジル人。サンパウロ州サント・アンドレに生まれ、18才の時、サンパウロ市内のナショナウACでプレーしていたが、いとこでコーチをしていたマウロ・コフェイアに勧められてドイツの5部リーグ所属のクラブのテストを受けた。2ヶ月のテスト期間終了後、契約にこぎつけた。その後、ニュールンベルクに移籍してからブレーク、2003年からシュットガルトとの長期契約を結んでいる。そして、ドイツへの帰化後、昨年、代表に初選出、出場を果たした。

 今般のドイツ代表には、ポドルスキーとクローゼの他にもポーランド人がいて、更に、エジル以外にもトルコ、ガーナ、ボスニア・ヘルツゴビナなど純粋なドイツ人ではない選手がチームの半数近くを占めている。

 何故このようなことに触れているかというと、今回のドイツ代表を見ていて、1998年大会に優勝したフランス代表チームを連想してしまったからである。アルジェリア移民の両親を持つジダンはもとよりアフリカや東ヨーロッパの移民ないしは2世の選手が、チームの半数を超えていたことが思い出させられたからである。開幕ダッシュに成功したドイツは、複数の人種を得て、やはり優勝候補としての存在を裏切ってはいないと思われた。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


新星、ドス・サントス

2010/06/12(土)

 2010611日、アフリカで初めてのワールドカップが開幕した。日本では、今ひとつ盛り上がりに欠けると世間では言われてもいるが、4年に1度の世界最大の祭典は世界中のどこでも筆舌に尽くし難いほど熱狂に包まれている。

 さて、開催国、南アフリカとメキシコの開幕戦は、84,490人の大観衆が詰めかけたヨハネスブルグ市内のシティ・スタジアムの結果は周知の通り。大会初ゴールを挙げた南アフリカのチャラババやピーナールも注目を集めているが、僕は、そのこととは別にメキシコのドス・サントスとカルロス・ヴェラに関心を持っていた。この2選手は、2005年、ペルーで行われたワールドカップU17大会で、決勝戦でブラジルを3-0で破り、メキシコに初のタイトルをもたらした時の中心選手であったからである。2006年のドイツ・ワールドカップは若過ぎて出場はならなかった2選手のワールドカップ初出場を密かに期待していた。

 カルロス・ヴェラはU17大会の得点王となり、その後、イングランドのアーセナルに移籍、レギュラーのひとりとして活躍している。実は、僕のブラジル人の友人のひとりにサンドロ・オルランデッリという人物がいる。彼は、唯ひとりのアーセナルの中南米担当スカウトとして活動している。選手の年齢が13才、14才の頃からひとりの選手を80試合ほどはスカウティングして納得した時点で、アーセン・ベンゲル監督に推薦するという。僕は、ブラジルに行く度にサンドロと会っていたが、最も自信を持って推薦できると語っていたのがカルロス・ヴェラであった。ペンゲルは、ピッチの中だけではなく外でも性格の質というべきか品を要求していることも聞いていた。

 そして、もうひとり、ジィオヴァーニ・ドス・サントスには、より深い興味を抱いていた。ジィオヴァーニの父親の存在であった。ご存じの方も多いことと思うが、ブラジル人の姓のドス・サントスとダ・シウヴァなどは、その数の多さは異常なほど。父親は、ジェラウド・ドス・サントス、ジジーニョ(Zizinho)のニックネームで知られていた。今年で48才になるジジーニョは、15才でサンパウロFCのトップチームデビューをし、U17ブラジル代表で頭角を現した。その活躍に、メキシコの名門クラブ、アメリカが即時に契約をしてしまった逸材であった。全盛時、メキシコ代表監督から代表入りのオファーも受けたが帰化はしなかった。僕には何故か、切れ味鋭いプレーを見せていたジジーニョの名前が脳裏から離れない時代があった。ジジニーニョの息子としてのジィオヴァーニのU17ワールドカップでの活躍を知った時、今回の南アフリカ大会での登場を、そして、どのようなパフォーマンスを見せてくれるかを期待し続けていた。レフティでゲームも作れ、ドリブルにも優れゴール感覚も持ち得ているところからメキシコのメッシという人もいる。南アフリカ戦は、あどけなさの残る顔のジィオヴァーニは、ワールドカップのデビュー戦にも拘わらず落ち着いた素晴らしいパフォーマンスを見せてくれた。24才の兄のエーデルはメキシコのアメリカでボランチとして、そして、1才年少のヨナサンも僅かな試合ではあるがFCバルセロナのトップチームのメンバーとしてデビューしており、昨年はメキシコ代表チームでもデビューした。父親と同様、中盤でプレーするジィオヴァーニ、ヨナサンのドス・サントス兄弟が、揃って、父親、ジジーニョの祖国、ブラジルでの次期ワールドカップ出場も夢ではない。

 今回のワールドカップ、体格的にも似て、そして、パスを回して攻撃的なプレーを見せるメキシコは日本の模範になるとも、かなり以前から言われてきた。パスを受ける第3者、第4者の動きも魅力ではあるが、僕は、ジィオヴァーニ・ドス・サントスの魅惑的なプレーも大いに楽しみたいと思っている。

固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)


トップページ | 2010年7月 »