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2010年7月

「わしらの会」

2010/07/30(金)

 昨夜、枚方FCの宮川淑人氏が主宰する「わしらの会」に、初めて参加した。僕は、元々、関東人であるので知らない人々ばかりのパーティーに参加することに違和感は多少あったのだが、話をできる人々の多さに宮川氏のサッカーに熱く接する機会と作り出す雰囲気に気持ち良く触れることができた。参加して正解であり、楽しい時間を過ごせたと思っている。

サッカーが好きで、それぞれの環境や価値観で生活している人たちに接して、心地良い感慨をもたらせられたと思った。

 色々な初めて出会う人々と話をしていて、僕は、あることを思い出していた。浦和レッズに所属していた時代、僕は、ポルトガルもかなりの回数で訪れていた。選手の契約のためにスカウティングをしていたのであったが、スポルティング・リスボンにポーランド代表の素晴らしいCFがいた。アンジェイ・ユスコアヴィック。バルセロナ・オリンピックの得点王であった。ポーランドのベッケンバウアーと言われたブオジメジ・ルバンスキーが、ユスコアヴィックの代理人であった。ポルトガルで何度も交渉はしたが、契約には至らずユスコアヴィックを日本に連れて来ることは叶わなかった。理由は、単純であった。ヨーロッパのどの国のクラブでもプレーしていても、代表に召集されれば2時間か3時間で母国に帰れる。ロシアのモスクアが最東端であると、彼らは価値観を固めていた。日本に行けば、半日以上の移動が必要になるというのが彼らの見解であった。僕は、引き続き説得をしたけれど、年俸を三倍にしなければという要求に諦めざるを得なかった。僕はポーランド語が解らないので、ユスコアヴィックとはポルトガル語でルバンスキーとは英語で交渉せざるを得なかった。そして、当時、ユスコアヴィックのプレーをスカウティングするためにタッサ・ポルトガル(ポルトガルのFA CupTaça Portugal)の決勝をスタジアムで観戦した。バックスタンドが道路であって4万人収容のスタジアムであったが、満員の盛況であった。僕は、上司とタクシーでスタジアム入りしたが、帰りのタクシーの予約はできなかった。

 試合が終わり、リスボンに帰り次の約束の人々と会わなければならない予定があった。すぐさま、タクシーを拾おうとしたが人が多すぎてつかまらない。仕方なく、近くのパールに行ってタクシーを呼んでもらうことにした。バールの店主は、直ぐにタクシーを呼んでくれた。僕らは、ビールを一杯だけ飲むことにしたのだが、何度も店主に尋ねてもタクシーは一向に来なかった。二時間近くも経った頃、僕は店主にタクシーが来ないのであれば他を探すと、ややキツイことばを投げかけた。すると、店主はタクシーをバールの近くで待機させていると返答してきたのであった。ポルトガル語ができる日本人がスポルティング・リスボンの応援に来たものと思い込み、僕とバール内の人々との会話を終わらせたくないと思っていたそうであった。支払を済まそうとすると、店内のお客さん十数人と店主から支払う必要はないと言われた。あなたは、スポルティングのサポーターと思えるから、料金など払わせないよと、言われた。僕はご馳走になって、そして、二時間も待ってくれていたタクシーの運転手にホテルまで送ってもらった。タクシーの運転手さんに待たせて申し訳ないと言ったところ、サポーターと話していたので、全然、問題ないよとと、応えてくれた。

 サッカーに毒されてしまった人々は、どこでも同じ人種なのだと思った瞬間であった。昨夜の「わしらの会」、集った人々も同じ人種であると思った。

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セヴィージャ

2010/07/29(木)

 先日、僕のブログ開設に大きな力を貸して頂いた関係者が懇親会を開いてくれた。最長老のジャーナリストの賀川浩氏を含め、サイトの主催者である本多氏、斎藤氏。根本女史と楽しい時間を過ごせた。そして、その懇親会でひとりの女性を紹介された。東仲マヤ女史。話を伺っていると、マヤさんはスペインのフラメンコの発祥地であり本場のセヴィージャに6年程フラメンコ修行を行い帰国してそれ程の時間が経っていないとのこと。今、プロのフラメンコ舞踏家として活動していて、その世界では知られた人物であることを知った。活発に活動をされているプロである。

 僕は、残念ながら、セヴィージャを訪れたことはないが、ブラジル代表であったルイス・ファビアーノのセヴィージャと、かつて左サイドで圧巻のテクニックを披露していたデニウソンが所属していたレアル・ベティスの二大クラブの話をした。マヤさんは、セヴィージャの住人であったことから、サッカーにも興味があることを知った。

 そして、滑稽な思い出話しをしてしまった。僕が浦和レッズに所属していた当時、元スペイン代表、FCバルセロナやデポルティーボ・ラコルーニャでプレーしていたチキ・ベキリスタインの契約に携わった。仮契約を済ませていて、興行ビザの取得に入った。僕は、速やかにビザの発給が行われるようにと、バルセロナの日本総領事館に電話を入れた。大きな勘違いをしていた。領事館の職員は、スペイン人であると思い込んでいたので、当然、スペイン語で協力のお願いをしていた。僕の交渉を受けていれてくれた女性はチキの大ファンであると知って、少し心強くなった。30分程話しをして、僕は日本人の職員にも再確認をしたいと申し出た。領事館の女性と僕が、笑いの渦に巻き込まれることはあっという間に必然になった。なんと、スペイン語で会話していた女性が、実は、関西出身の日本人であったのだ。お互い、スペイン語で会話していたので、話し相手が日本人ではないと勝手に思い込んでいたのだ。

 そんな笑い話をしていて、僕はマヤさんにフラメンコのリズムだけは知っていると伝えてしまった。そして、フラメンコのリズムを見せて欲しいと頼んでしまった。すると、マヤさんは、両足、両手、口の五か所で同時にフラメンコのリズムを披露してくれた。しかも、椅子に腰かけていながらで環境を選ぶことがなかった。フラメンコという名が、19世紀後半に一般的になったという。1863年にイングランドでFAが創設されたことと、何かダブってしまった。そして、マヤさんの見せたフラメンコの妙技に、僕はペレが条件を選ばずに魅せた同じことを思い出していた。

 ペレが、NASL(North American Soccer League)のニューヨーク・コスモスでプレーをしていた時代こと。今は、MLS(Major League Soccer)としてペッカムなどが活躍しているが、1975年から77年、ペレはアメリカでプレーをしていた。ある時、TVで観たのであるが、ホワイトハウスに招かれたペレが大統領の前で神業のひとつを披露したのである。タオルで目隠しをした上で、果物のグレープフルーツをボールにしたためリフティングを始めたのであった。落とすことはなく、サッカーボールそのもののリフティングにしか感じられなかった。テクニックやリズムは体感として備えていれば、どのような状況でも発揮できるものと思ってしまった。日本でも、こうした体感を簡単にパフォーマンスで見せてくれる選手が多数誕生してくるような将来を想像してしまう自分に気が付いた。

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回帰

2010/07/27(火)

 一昨日の日曜日、ブラジル人の友人のひとりであるEros Mathodoから連絡を受けてインターネット通信で1時間以上会話をした。Erosは、パラナ州クリチーバ市のスポーツ委員会に勤務していて要職に就いている。U-20までは選手としてプロを目指していたそうだが、限界を感じて大学で学び現在の仕事に就いていると聞いた。Erosは、パーティに出席した後のブラジル時間の深夜に連絡してきて、セレソンの監督にマーノ・メネゼス(Mano Menezes)が就任することが決定済みであることを伝えてくれた。”期待できるよ”と、語っていた。

 僕も、マーノが監督になることはブラジルのサイトで知っていた。フルミネンセのムリシー・ハマーリョ(Muricy Ramalho)がクラブとの契約期間が残っていて、残念ながら、ブラジル代表監督に就くことができなかったので、コリンチャンスの監督のマーノが指名された。僕は、マーノとは面識がないが、ムリシーとは彼がサンパウロFC監督時代にしばしば会う機会を持てていた。ムリシーがセレソンの監督候補に挙がったことを知った時、彼なら良いチームを作るであろうと期待していたのであるが。有能な監督を、フルミネンセは引き留めてしまった。

 Erosと話していて、マーノもErosと似た青春時代を過ごしていたことを知った。マーノは、GK以外のポジションをすべてこなし、キャプテンシーを発揮していた。しかし、所属したクラブでのプレー経験は、すべてアマチュアであった。アマチュアの選手としてプレーしながら、大学で体育学とマネージメントを学び、アマチュアのクラブの下部組織のコーチから始め、2004年に初めてプロのトップチームの監督となった人物。ドゥンガ前監督と同じリオ・グランデ・ド・スル州出身のマーノは、翌年、ブラジル選手権セリアBに降格したグレミオを1年でセリアAに復帰させ、その後、コパ・リベルタドーレスでも準優勝に導いた。2008年にコリンチャンスの監督に就任しても、またしても、セリアBからセリアAへの復帰を果たし、コパ・ド・ブラジルでも2年連続決勝に導いている。ここ数年のマーノのタイトル獲得については、特筆するものがある。その能力と実績を買われて、セレソンの監督の座を獲得したものと思える。

 マーノは、変革を求めて、8月10日に行われるアメリカ合衆国との親善試合のメンバーを発表した。南アフリカで戦ったメンバーで選ばれた今回の選手は、4名。そして、僕がとても注目している点は、マーノが”ブラジルらしい魔術を取り戻す”と、記者会見で語ったことである。そのひとつに、興味深い人選があった。サントスFCのクァルテットが、誕生したことであった。サントスFCで輝いている4選手は、南アフリカでの活躍をブラジル国民から期待されていたが、ホビーニョ以外はドゥンガ監督の目には留まらなかった。サントスFCの下部組織から育ってプロになった選手たちである。パウロ・エンリキ・ガンソ(Paulo Henrique Ganso)、ガチョウのニックネームを持つ20才の左利きのMFは、79試合で22得点。FWのホビーニョは既に知られた代表再選出。ペレの指導でジュニアユース時代から注目を集めていた、サントスFCの秘蔵っ子。111試合で46得点。アンドレ(André Felipe Ribeiro de Souza)は、19歳のFW。52試合で28得点。そして、ホビーニョの後継者として育ってきたネイマール(Neymar da Silva)は、若干、18才。77試合で41得点と、その得点能力の高さは世界中に知られている存在だ。

 マーノは、攻撃力溢れるサントスFCの選手を迷うことなく選出した。ロンドン・オリンピック世代も7選手を選考している。ペレも、真面目な性格のマーノをCBFが監督として選択したことに異論はないと語っている。ブラジル国民が親しんできた攻撃的でファンタジックなサッカーが、マーノの手腕にかかっている。さて、次は、日本代表監督。誰が、サムライブルーを率いるのか、そして、若い選手の出現に興味は尽きない。

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女子サッカー

2010/07/22(木)

 昨今、フットサルをする機会が増えて気持ちよい汗をかいている。そして、フットサルを愛好する女性がとても多く存在することに気が付くまでに時間はかからなかった。
 南アフリカでのワールドカップが終わってしまい、宴の後の淋しさのようなものも感じていたが。南アフリカでのワールドカップに熱中していた余熱もあって、U-20女子ワールドカップにも注目している。7月13日から8月1日までドイツで開催されている。U-20なでしこジャパンは、メキシコと引き分け、ナイジェリアに敗戦、イングランドに快勝したものの、グループリーグで敗退してしまった。残念ながら、ベスト8進出はならなかった。TVで試合の映像を観ていると、テクニックもパスワークも優れてスピードもあり期待できると感じていた。しかし、これからのフル代表、なでしこジャパンの明るい将来も感じさせてくれた。

 そして、ブラジルで同様に女子サッカーのTV中継を何日も観ていたことが思い出された。1992年、僕は、単身でサンパウロに滞在していた。ペレイラやアモローゾなどの選手を獲得していた時のことである。1991年に女子のワールドカップが始まったので、その翌年のことになる。女子のブラジル代表も現在ではワールドカップ優勝を狙える国のひとつになっているが、当時は大敗する試合もあって決して強豪国ではなかった。CBF(ブラジルサッカー連盟)は女子代表の強化策として、僕の記憶では、確かサンパウロ州、リオデジャネイロ州、ミナス・ジェライス州など5つの州選抜と試合を重ねていた。代表と州選抜とは力の差があったように、僕は記憶しているが。そして、スタジアムに観客は殆どいなく寂しい光景ではあったが、どの試合もTV放送されていた。但し、TV中継には解説者もリポーターも存在せずに、アナウンサーがひとり感想を述べるようなものであった。”オーパ、女性でもこんな強いシュートを打つのか ? ”、”素晴らしいドリブルだ”、”巧みなパス回しだ”といった、若干、蔑視しているかのような表現をそれとなく記憶している。TVを観ていて少し不快感を抱くような表現を聞きながら、僕も似たような感覚でいたように思う。

 読売クラブ時代を含めてヴェルディで、ベレーザやメニーナの試合を観る機会もあった。
Lリーグ(現在のなでしこリーグ)の役員も務めた時代もあって、女子サッカーの取り巻く環境が恵まれていなかったことも知った。しかし、現場スタッフと選手のモチベーションは、男子プロと差異を感じることはなかった。来年、6月26日から7月17日まで、ドイツで第6回女子ワールドカップが開催される。アジア予選だけが終了していて、なでしこジャパンは6回続けて出場することが決定している。過去の5回、アメリカとドイツが2回、ノルウェーが1回、世界王者に輝いている。男子のワールドカップ同様、世界中のレベルの差は縮まりつつある。ブラジルも、国外でプレーする女子選手が増えてきている。同様に、日本の女子選手も海外のトップリーグ、ドイツやアメリカでプレーする数が増えてきた。さむらいブルーの妹分なでしこジャパンやなでしこリーグにも興味を持てれば、サッカーの楽しみ方が増えるものと思う。

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3人でサッカー ?

2010/07/19(月)

 つい最近、僕は初めての友人の知り合いを紹介された。中学生まではサッカー部に所属していたが、今はフットサルに興じているという30歳前の青年。近々、フットサルの試合があるが、人数も多くないので助っ人として来てくれないかという大変嬉しい要望を聞けた。
その青年もワールドカップの余熱が冷めず、フットサルが更に楽しくなっていると聞いた。
日本中に、このようなサッカーが好きな老若男女が増えたものと信じたい。

 僕は、その青年から聞いた。時に、5人が揃わない危険性もあるのですと。僕には、5人という数字にこだわることはなかったので話が続くことになった。”3人対3人でも、7人対7人でも、或いは、5人対6人でもいいんじゃない”と、僕は自然に応えてしまった。というよりも、説得してしまったという方が適切かもしれなかった。
 公式戦では、11人でスタートし公平に戦うのがサッカー。当然のことだ。フットサル、それは5人。でも、公式戦でなければルールに縛られたり自分のチームの優位性を追求しなくてもよいのではと思っている。

 僕がとても可愛がられた恩師のひとりに、”ロクさん”こと高橋英辰(たかはし・ひでとき)氏がいる。10年ほど前に他界されてしまったが、日本代表監督や日立製作所(現在の柏レイソル)の監督も務められ実績を残した人物。オシム氏のように、走ることがサッカーの原点として指導していたひとだった。僕は読売クラブに所属していたので、ロクさんと同じチームで仕事をすることはなかった。ロクさんが日本サッカーリーグの総務主事をしていた時代、僕はロクさんに様々な啓蒙を受けた。そして、ロクさんは、プロ化を進めていた僕ら若輩の最大の理解者であり援護者であった。

 ある時、ロクさんが僕に語ってくれた思い出を今でも忘れることはできない。ロクさんが、ドイツのホテルに滞在していた時のこと。ふと、ホテル内の中庭に目を転じると3人の少年がいたという。何をするのかと、のんびりと見ていたという。すると、3人の少年はそれぞれのポジションについたという。ひとりは、PKのキッカーに、他のひとりはGKに。そして、残るひとりはレフェリーになったという。ポジションは、一回毎に変わり公平にキッカーにもGKにもレフェリーにもなれたという。ロクさんが僕に熱く語ったこととは、それぞれのポジションと役割を3人の少年たちが楽しそうに演じていたということだった。シュートを決めた少年は、アイン・トゥーアと叫んで得点に歓喜した。失点したGKを演じた少年は失望感を表し、審判役の少年は毅然とホイッスルを吹くしぐさをしていたという。楽しみ方には、工夫、イマジネーションが必要であるということだった。

 ロクさんが僕に解って欲しいと思っていたことは、遊びでも、子供でも、実際の試合と同じような意識でサッカーに触れるべきであったということかもしれない。サッカーは11人が集まらなければできない、フットサルは5人集まらなければできない、公式戦では必然である。しかし、公式戦でなければ、固定観念やルールに縛られることなく自由な発想でゲームを楽しもうとすることの方がより重要ではないのでは。フットサルに誘ってくれた青年は、価値観を変えたようである。

 ワールドカップであれ、Jリーグであれ、フットサルであれ、草サッカーであれ、僕は、マニュアルや固定観念に陥っていてプレーしている間は、本当のサッカーの楽しさと素晴らしさを感じられないのでないかと思っている。そして、オーバーなことを言ってしまうと、今後の日本代表を担う選手たちは、きっと、枠にはまらない独自的な個性を発揮しなければ、より高いレベルでの活躍は難しいのではと思ってしまう。これからは、個性ある選手との出会いが、僕は楽しみでならない。

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考え過ぎ?

2010/07/15(木)

 ワールドカップ、南アフリカ大会はスペインの初優勝で幕を閉じた。大会前、色々な人々が優勝国を予想していたが、果たして、どれほどの人がスペインの優勝を信じていたのだろうか。

 サムライブルー躍動もあってワールドカップの魅力に憑かれて、決勝戦まで睡魔との戦いをしていた人々も多いと思う。そして、何よりも南アフリカの現地で報道したメディアの人々、応援に出かけたファン、サポーターのエネルギーと情熱は素晴らしいと思う。

 ところで、大会が始まる前に、親しいブラジル人から興味あることを聞いていた。”セレソンは、レギュラー選手に背番号の1から11を与えている”。試合前から告知してしまうスターティングメンバーの力量を信じるとともに責任感を委ねていると思った。控えの選手たちも、途中出場する責任感を抱くのではと思っていた。負傷や出場停止などがなければ、すっきりした背番号のユニフォームがピッチを飾る。結果も、同様に。今までは気に止めていなかったが、これはブラジルの伝統と自信の表れのようなことも感じていた。

 ドゥンガ監督は、強烈な批判を受けながら自らが必要とする選手選考を行った。僕の友人であるブラジル人やブラジル贔屓の日本の友人も、その多くがドゥンガ人選に批判的であった。ドゥンガ監督不人気に不安を抱いてルーラ大統領も、ブラジル国民にドゥンガ・セレソンを信じようと説得にあたっていたように僕には感じていた。ルーラ大統領は、アフリカ五カ国歴訪の最後に、南アフリカでセレソンの決勝を観戦する公式スケジュールを作っていた。しかし、ルーラ大統領がブラジルからアフリカへの訪問する以前に、ブラジルは敗退してしまっていた。勿論、ブラジル国内の諸問題もあって急遽帰国しなければならない状況も発生し、仕方なくスペインとオランダの決勝戦は観戦していない。賛否は別として、ブラジルの大統領として国民の気持ちを示したものとして僕は納得してしまった。

 さて、32カ国のワールドカップ出場国に、もうひとつ背番号1から11にこだわったと思われる国が存在する。オランダである。当然、上述のように、負傷や出場停止などの状況に影響されるが。そして、ブラジルは準々決勝でオランダに敗れ、オランダは決勝でスペインに敗れた。

 僕はブラジルとオランダが、どうして優勝できなかった点を見出したいと思った。どちらの国も優勝していれば、賛辞の洪水の最中にいたと思われる。それだけ、他の国を圧倒できるものを持っていたと思いたいからである。パスを多用しポゼッション率を高めて評価され、優勝したのはスペインであった。しかし、ブラジルもオランダも本来の自分たちの日常的な試合展開を意識してパスを回し、個を活かしていたのであれば、結果は異なっていたのかもしれないと思っている。ブラジルとオランダは、勝つことのみの目的に拘泥されてしまい、本来の自分たちのスタイルを忘れていたのではないかと思えて仕方がない。

 ワールドカップを複数回、監督として経験できるひとは少ない。ファン・マル・ヴァイクもドゥンガも、監督してはワールドカップ初出場である。ワールドカップでは何が起こるかを熟知していたとは思えない。過信してしまったのか、弱気になってしまったのか。考え過ぎてしまったようにも、思えてならない。

 そして、過ぎたるは及ばざるがごとしということわざを、思い出していた。選手が所属するクラブチームの背番号に対するこだわりも影響するかもしれないが、代表チームは別のものであると思う。どちらも、目標は、試合に勝つことでありタイトルを取ることに違いはない。ブラジルがオランダが或いはドイツが価値や勝ちに拘りすぎたことで平常心を忘れていた部分があったとしても、初優勝を成し遂げたスペイン代表は、結果よりも自分たちのスタイルのこだわりによって戦いの頂点に立てたように僕には思えて仕方がない。

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決勝戦

2010/07/12(月)

 スペインがオランダを破り、優勝経験国の8番目のメンバーとなった。そして、19回のワールドカップの内、ラテン系の国が15度目のタイトルを獲得したことにもなった。僕は、スペインの優勝を率直に素晴らしいと思う。今後のサッカーがパスを繋ぐ潮流になれば、プレーしている側も観る側としても楽しく面白いものと感じるからである。オランダもパスを回すサッカーを展開しているが、スペインの方がより美しく華麗にパスを繋いでいたし、ドリブルも絡めていてより自由にプレーしているように思われたからである。オランダは、少し力み過ぎていてクールな戦い方ができなかったように思われた。そして、日本サッカーもスペインほどの緻密さや精度に適わないまでも、色々な点で模倣が可能ではないかと思いたい。

 拮抗した決勝戦を観ながら、僕には頭の中を幾度もよぎっていた記憶があった。1997年のこと、即ち、フランス・ワールドカップの前年のことである。CBF(ブラジル・サッカー連盟)とKNVB(オランダ・サッカー協会)とが協議して、1年間に3回も、強化のための親善試合を行った。2試合をブラジル国内で、残り1試合をオランダのホームで行われた。理由は、ワールドカップで直接対戦することも予想していたが、当時、世界で最も試合中のパスが多い国としてブラジルとオランダが筆頭格であったからである。パスの回数はオランダがやや優っていたが、成功率は断然ブラジルが優っていた。セレソンの監督はマリオ・ザガロであって、オランダはフース・ヒディンクに率いられていた。結果として、翌年、準決勝で、ザガロとヒディンクは対決した。決着はPK戦まで行き、ブラジルが決勝に進出した。

 結果的に、オランダは、攻撃力、決定力ではスペインを上回っていたと思えるが、今回もパスの成功率で優ることができなくて破れてしまったように思われる。スペインは、守備面でもオランダに優っていたと思われるし、それは、ポゼッション率の優位性がもたらしたものと思う。僕は、1999年、ナイジェリアで行われたU-20ワールドカップ決勝戦も思い出していた。日本代表がスペインに負けたが、当時からバルセロナのレギュラーの座を掴んでいたシャビの存在を忘れることができなかった。シャビは、今回のスペイン代表の心臓であったと思う。そして、シャビと巧妙に絡むことができるイニエスタの成長がタイトルを取れた理由のひとつでもあったと思う。無駄に労力を使わずに、聡明にポジショニングを選択する運動量は、精度を高めて限りなくミスを減らす術のベースであったと思う。

 以前は、しばしば、外国人に言われたことばがあった。ブラジル人には、”ブラジルではボールが走るが、日本では人が走る”というのが一例である。効率を考えたプレーをするべきであると、耳の痛いことばであった。

 オランダではアヤックスが、スペインではバルセロナが、育成に力を注ぎ代表選手を産み出してきた。Jリーグを作る作業を色々な人々としていた時、下部組織の充実を前提条件としていた。シャビやイニエスタに代表されるようにカンテラからスペイン代表の多くの選手が育まれてきたように、日本にも個性が溢れ、魅せるサッカーができるような多くの選手の出現する日が1日も早く実現することを期待したい。スペイン代表の優勝に、このような感慨を抱いたのは僕だけではないと思うからである。

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3位決定戦

2010/07/11(日)

 ドイツとウルグアイの3位決定戦は、予想していた以上に白熱した面白いゲームであったと思う。どちらのチームも勝ちたいとする闘志を見せ続け、しかも、攻撃的な内容で楽しめた試合となった。試合終了のその瞬間まで、両チームの見せる攻防に余りにも時間の過ぎ去る速さを感じてしまった。

 いつものように、僕は、ブラジルの友人アウミールとインターネット通信で一緒に観戦していた。ブラジル人故の彼は、当然の如く、ウルグアイを応援していた。1970年メキシコ大会の3位決定戦も同じカードであったことから、ふたつの国がいろいろな縁があって戦うこの試合を楽しもうということになった。しかし、当時はふたりとも十代の少年時代のことであって、今となって多くの知識を得たことで楽しい話題に包まれてTV観戦となった。

 ウルグアイのディエゴ・フォルランの右足でのボレーシュートの素晴らしさに、ふたりとも感動した。このフォルランのゴールは、今大会で最も素晴らしいもののひとつと僕は思っている。そして、僕もディエゴ・フォルランの父親のパプロ・フォルランも代表選手であったことは知っていたが、アウミールから聞いた話は初耳で更に興味を抱かされた。パプロは、息子のディエゴとは異なりポジションは右サイドバック。1966年から10年間のセレステ(ウルグアイ代表)の一員であった。しかし、66年のイングランド大会と74年の西ドイツ大会のワールドカップ・メンバーでありながら、70年のメキシコ大会はメンバーから外れていた。アウミールは少年時代であったはずなのに、パプロのことを良く覚えているという。理由は、簡単であった。パプロは、1970年から76年までサンパウロFCのサイドバックとして活躍していたのだという。その後、クルゼイロでもプレーしていたので、GKをしていたアウミールにとっては記憶が鮮明であったという。

 試合は、ドイツが逆転して3位決定戦でも勝負強さを証明した。ドイツは、決勝戦ではないことで4度目の3位となっても何故か喜びを表せない印象を受けたのは僕だけではないと思う。しかし、控え選手を起用するドイツに余裕と選手層の厚さを感じ、次回のブラジル大会では、進化させたゲルマン・サッカーをより昇華させるものと期待感が高まる。一方、ウルグアイは、全力を尽くした達成感のようなものを感じた。

 僕は試合を観ながら、フォルランのバランスの取れたパフォーマンスに虜になっていた。ゲームを読み取る賢明さ、パスの精度、無駄のない運動量、そして、左右の両足からの違いがない決定力溢れるショート力。それとは別に、若きトーマス・ミューラーの出現が、ドイツ代表を更に強くしていく存在のひとりであると確信した。FIFAのBest Young Player Award は、ミューラーに間違いないと確信している。そして、得点王争いも面白くなった。

 さあ、決勝戦。僕は、クライフの親友であるオランダ人監督、デモスのことばを思い出している。デモスが小学生の頃、1958年のスウェーデン大会をTV観戦してセレソンが好きになったということを聞いた。クライフが魅せたトータルフットボール、バルセロナが踏襲している。バルサの或いはスペイン代表の原点がオランダにあると言われているが、僕には、その前の原点はブラジルにあると思っている。蛸のパウルくんが、予想をすべて的中させている。パウルくんは、スペインの優勝を予想した。僕の親しい友人も、予想を重ねてきた。大会前、スペインがグループ・ステージで敗退すると予想した友人は、パウルくんとは全く異なりその後のすべての試合の予想が当たらなかったという。しかし、今ではその友人もスペインの優勝を予想しているという。結果は、神のみしか知らない。決勝戦を、大いに楽しもうと思う。

 今後のサッカーの潮流が、決まる瞬間であるから。

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準決勝その2

2010/07/08(木)

 いよいよ決勝カードが、決定した。初優勝を目指す同士のオランダスペイン。どの大会でもそうであるが、決勝戦への興味は高まるばかりだ。17回目のワールドカップ出場のドイツは、今大会も含めて11回目のベスト4入りの歴史的に経験があり実績も作ってきた。イングランドやアルゼンチンという優勝候補と目されていたチームに大勝し、カウンターアタックではあっても従来のスタイルとは異なるボールを繋ぐサッカーでセンセーションを起こしてきた。一方、スペインは、13回の出場も60年前の4位の一回のみ。本番で脆さを露呈し続けてきた。しかし、ポゼッション・サッカーの観ていて楽しい試合を見せてくれる代表的なチームであると思っている。

 ドイツ対スペインを観戦しながら、いろいろなことが頭の中を去来していた。準決勝という場は、頂点に立ちたいとすれば負けられない試合としては意味が大きい。従って、守備を重視しリスクを避ける内容になりがちである。ドイツは、決勝を意識しすぎて本来のドイツらしいサッカーを発揮できなかったように思われてならない。アグレッシブさに欠けていたように思うのは、僕だけではないと思われる。スペインはというと、平常心で普段通りのスタイルを貫いたのではと僕には思われた。

 無敵艦隊と称され、ここ十年来は、常にワールドカップでも優勝候補に挙げられていた。レアル・マドリーバルセロナに代表されるように、スペイン国内のライバルチーム同士の試合は、あたかもワールドカップ決勝のような価値を認めざるを得ない存在のような気もしている。但し、今までのスペイン代表は、国内のそれぞれの地域の人種、歴史、文化、言語の違いから”ひとつになれなかった”ということを、スペイン人の知人から聞いていた。
しかし、今大会のスペイン代表は、レアルとバルサの選手たちが優勝を目指して素晴らしく融合しているように感じる。

 “サッカーは、長方形のピッチ、そして、ボールは球或いは円とも言えるが、基本的なもの、そして、最も重要なことは、三角形を意識してプレーすることだよ”と、ブラジル人監督、ジノ・サニ氏(セレソンで1958年、ワールドカップ優勝、サンパウロFCやACミランなどで選手として活躍、コリンチャンスペニャロールボカ・ジュニアーズなどの監督、読売クラブ時代の特別コーチ)の教えを常に忘れてはいない。

 ドイツもスペインも、ピッチ内で多くの様々なサイズの三角形を作っていた。三角形を作るということは、それだけパスを繋げることになる。ポゼッション率も、高くなる。ボールをキープし続けることができれば、負けることはない。スペイン代表は、個々のテクニックも高く、ディフェンスの裏をつくプレーも上手い。スペインは、パスの回数、その精度の高さで決勝進出を決めたと思う。それは、スペインで日常的に展開されているスタイルそのものであると思う。

 オランダも、パスを繋ぐサッカーで勝ち抜いてきた。ワールドカップの八カ国目のタイトルホルダーとなるのは、オランダなのかスペインなのか。攻撃的で、ボールを回すスタイル同士の決勝は、今後のサッカー進化としては申し分のない好カードになったと思う。
  睡眠不足を少しでも解消し、決勝戦、サッカーの醍醐味を楽しみたい。

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準決勝その1

2010/07/07(水)

 オランダウルグアイの準決勝は、スペクタルな内容でTV観戦していて睡魔に襲われることはなかった。いつも通り、シーズンオフでブラジル、パラナ州、クリチーバ市に帰省しているアウミール・ドミンゲス(カタールのアル・ガラーファのコーチ、マリノスとヴィッセルでコーチ経験)と、スカイプ通信で試合中、意見交換しながらの観戦。スペイン系の。祖先を持つアウミール自身は、ウルグアイの勝利を期待していた。

 僕は、試合が始まるとダリオ・ペレイラ(86年のメキシコ・ワールドカップ、ウルグアイ代表キャプテン)の予想というべきか希望するコメントが頭の中をよぎっていた。”ウルグアイが、1-0 で勝つだろう”とする、記事をブラジルのサイトで興味深く読んでいたからである。ふたりの予想と希望は、オランダの勝利で叶わなかった。

 オランダの決勝進出は、1974年78年に次いで3度目となる。僕は、74年の西ドイツ大会を思い出していた。決勝戦は、西ドイツ対オランダ。トータルフットボールと称され、当時のオランダはセンセーショナルでスペクタクルな素晴らしいゲームをしていて魅惑されていた。そして、オランダには、天才、ヨハン・クライフがいて、西ドイツには、皇帝、フランツ・ベッケンバウアーがいて、とても華やかな雰囲気を醸し出していた。ペレやマラドーナと並ぶようなスーパースター同士の対決であった。結果は、開催国、西ドイツの優勝で終わったことは、周知の通りである。

 この決勝戦は、日本で初めて衛星生中継でTV放映された。深夜、12時からの放送であったと記憶している。日本全国で放送されたか否かは解らないが、関東ではTV東京が金子勝彦アナウンサーと岡野俊一郎氏の名コンビで実況された。キックオフ早々にクライフがPKを獲得するプレーから、オランダの凄さを強烈に印象付けられたことを忘れることができない。

 その後のワールドカップからは、TVで数多くの試合が観られるようになり、今は、すべての試合を生で観られるようになった。そして、78年もオレンジ旋風は素晴らしかった。やはり、開催国、アルゼンチンに華を持たせてしまったが。

 僕の知り合いのコーチやファンの人たちにも、ヨハン・クライフのファンが極めて多い。74年、78年を知らないもっと若い人々もいて、クライフの人気の凄まじさを感じてしまう。そういう僕自身も、クライフは大好きである。余談であるが、浦和レッズ時代、オランダ人のア・デモス監督から面白い話を聞いたことがある。アヤックス時代、デモス氏、クライフ、ヨハン・ニースケンスは、野球にも興じていたという。クライフは野球も上手くて、名キャッチャーであったことを。クライフに対する親近感のようなものを、更に感じたことを思い出す。
 デモス氏からは、小国のオランダとしてのサッカーを確立すべき、トレーニング方法や様々な戦術の開発に余念がないという重要な話も聞いていた。

 決勝進出が3度目となるオランダ、今回は、”3度目の正直”ともいう人もいる。そして、決勝戦の相手国は、過去と異なり自国開催国ではなくドイツかスペイン。チームがまとまりつつあり、唯一、無敗で決勝進出を果たした。グループリーグで日本も対戦したオランダが、初優勝して歴史を変えるかもしれない。

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それぞれの感慨

2010/07/05(月)

 明日、明け方、決勝進出のひとつのチームが決定するワールドカップ。ベスト4を南米勢が独占するかもしれないと多くの人々も期待を抱いていたことも、今となっては、趨勢は逆転してしまった。

 僕の知り合いは、攻撃的な、或いは、想像もしないプレーを観たいと思っている人々が多い。従って、ブラジルやアルゼンチンの試合に特別な関心を抱いていたはずである。しかし、ベスト4に残ったチームは、ヨーロッパの3に対して、南米はウルグアイのみ。

 僕は、大会前、アフリカ勢の活躍を密かに期待していた。自分たちが生まれた大陸で初めて開催されるワールドカップで、ヨーロッパの主要クラブで戦った経験が成長したとする雄姿を見せる凱旋の場と思っていたからである。残念ながら、ガーナを除いて、開催国の南アフリカもグループリーグで姿を消してしまった。

 僕の知人に、イタリア・サッカー崇拝の人物がいる。実際に、プロとして指導している人物である。グループリーグで敗退してしまったアッズーリに、”哀しいね”ということばを投げかけたが、彼は、”あり得ない”と落胆を隠すことができなかった。

 チリ代表監督を尊敬するコートが、知人のひとりにいる。彼は、優勝できるチームとは思えないが、良いサッカーをしていたとして冷静に結果を受け止めた。しかし、イタリアを崇拝する後輩は、ショックを引きずってしまっている。

 僕は、以前、一緒に仕事をしたブラジル人コーチとほぼ毎日、スカイプで話をしている。グループリーグでセレソンが勝利した際は、彼の自宅近くで歓喜の爆竹の音も聞こえた。オランダに負けてしまった後の会話では、セレソンの話題は次の監督だけになってしまった。忘れたいのであろうと、思った。そして、敗戦が現実であると受け入れて、次のワールドカップを見つめたいとする冷静な一面にも接した感がある。レオナルドになるのか、ルッシェンブルゴか、やがては、フェリッピになるのか、次を考えたいと思う姿勢を感じた。

 ドイツに、イタリアに、ブラジルに、アルゼンチンなどにコーチ留学した友人も多いし、それぞれの国を好きな人も多い。そして、優勝するチームがひとつだけであることも、すべての人が知っている。ウルグアイ人のウーゴ・デ・レオン、ダリオ・ペレイラなど、オランダ人のア・デモス、ネイハイスなど、ドイツ人のオジェック、パイン、ブッフバルトなど、そして、スペイン人のベギリスタインなど、付き合いのあった人々のワールドカップに向ける現在の心境を考えてしまう自分がいる。誰が、至福の瞬間を迎えるのだろうか。

 今の僕には、どの国が優勝するかは解らないし、素晴らしい試合を期待したいと思うだけである。しかし、僕の周囲の友人はヨハン・クライフ信者が多い。僕も、クライフは大好きだった。オランダが初優勝することになれば、パスサッカー、ボゼションサッカーが4年間、世界中に浸透すると思う。ブラジルもスペインも今のドイツも、同様である。進化するサッカーに、日本も同調して欲しいと残りの4試合に注目したい。

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頭の中のテクニック

2010/07/04(日)

 ワールドカップも、佳境に入った。ベスト4が決定して、期待感と寂寥感が交錯する時期を迎えているように思えてならない。日本代表に付き合っていた熱い日々が過ぎ去り、そして、もっと観たいと思うチームや選手が南アフリカを離れなければならない結果に接しているからであると思う。ブラジルやアルゼンチン、ホビーニョやメッシなどをもっと観たかったと思う人々は多いのではと恣意的に思っている。

 ドゥンガもマラドーナも、初めての監督経験が代表チームであった。ふたりとも、マリオ・ザガロとフランツ・ベッケンバウアーに次いで、三人目の選手と監督としてのワールドカップ優勝を狙っていたと思うのであるが。ふたりとも、現役時代の価値観に頑固なまでに拘って監督業を遂行したものと思う。ドゥンガは、規律と組織を重要視し、マラドーナは、あくまでも個人能力を尊重していたと思う。ブラジルは、ブラジルらしくないと批判され続けた。選手選考も、他にあるのではと、ドゥンガ人気は低調であった。マラドーナは、戦術を知らないのではとも揶揄されていた。しかし、ブラジルは参加国の中で最もバランスの取れた優れたチームであったと思うし、アルゼンチンは最も攻撃的なチームであったと思う。

 僕がヨーロッパにしばしば出かけていた時代、20年近く前、特別、印象に残ることばを聞いて忘れられないことがある。あるドイツ人監督から、聞いたことばである。「ドイツ人選手は、ボール・テクニックではブラジル人選手には敵わない。しかし、ドイツには”頭の中にテクニック”がある。だから、試合の結果は解らないよ。」

 アルゼンチン代表に勝ったドイツ代表を観ていて、このことばが頭から離れない自分がいる。ダイレクトでパスを繋ぐ、それも、スピードに乗って。テクニックは個々の選手が見せるものであると同時に、チームにも集合体としてのテクニックが存在することをヨアヒム・レーヴ監督は示したものと受け止めている。

 さて、準決勝を別の観点から観てみたいと思うようになった。元々、今大会はヨーロッパの各国リーグでプレーする選手たちが代表チームの一員として愛国心を示す機会であると思っていた。それぞれの代表チームには、クラブではチームメートである選手たちが散らばっている。GKを含めたブラジルのDF陣は、インテルナチョナーレ(インター・ミラノ)のチームメートのシュナイデルの得点を防ぐことはできなかった。

 決勝に進出するチームがどの国になるのかは、解らない。そうした中、僕は、何故かドイツ代表が気になって仕方がない。理由は、単純でたったひとつ。ドイツ代表の23選手がすべて同一リーグでプレーしている点である。即ち、ブンデスリーガ。レーヴ監督が前回のドイツ大会で代表コーチであったこと、準決勝は出場停止となってしまったがトーマス・ミューラーやエジルなどの若手選手の台頭、チームの統一感に注目してみたいと思う。
 しかし、結果は神のみぞ知ることを忘れずに残り4試合を楽しみたいと思う。

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フットサルコートのワールドカップ

2010/07/01(木)

 惜しくも、日本代表はベスト8進出を逃してしまった。国内外のメディアが報じるサムライブルーの戦い方に対する賛辞と批判に触れた余韻の中、昨夜、僕はフットサルコートにいた。30年を超えて交友のある加藤寛氏(現在、親和女子大学教授)が開いている神戸スポーツアカデミーのシニアサッカースクールで、僕も参加し楽しませてもらった。ネルソン松原氏と上村克也氏のふたりの元ヴィッセル神戸コーチも、楽しく指導していて爽やかな印象を持った。

 そして、明け方までテレビ観戦した人々がフットサルコートに集まっていた。女性も交じっていた。加藤氏が、「楽しむためのフットサルだから、スクールのユニフォームを揃えることはしない。それぞれの人が、気に入ったものを着用した方が楽しいから。」と語ってくれた。その価値観は、見事にコートに溢れていた。”まるで、フットサルコートのワールドカップ”の雰囲気のように感じるまでに時間はかからなかった。ウルグアイ、アルゼンチン、オランダ、イングランドなどのレプリカをまとった人が多い。ボールに触れることが楽しくて仕方がないといった感じで、人々の目は輝きスクールメート同士で一種の一体感を作り出していた。それぞれの人々は、きっと好きな選手イメージしながら自身も楽しみ、開催中のワールドカップを、或いは、海外のサッカーを楽しんでいるように思われた。そして、僕には、Jリーグなどの国内のサッカーも興味を深めて楽しんで欲しい気持ちが増大している。

 ところで、このブログ開設にあたり、大変なご尽力頂いた方々の中でFootball Japanの本多克己社長の存在が極めて大きい。昨今、本多氏から面白いお話を伺った。1979年、現在のU20ワールドカップが日本で開催された時の話。ディエゴ・マラドーナが最優秀選手となり、ラモン・ディアスが得点王になったワールドユース。東京、横浜、大宮とともに神戸市が4つの開催会場のひとつであった。神戸市開催のグループ予選では、パラグアイは首位通過したが準々決勝でPK戦で敗退した。エースのフリオ・セサール・ロメロ(Julio César Romero)が大活躍し、神戸市内でチリレストランを経営するチリ人のダゴベルト氏がパラグアイを応援し続けていた。この話は、当時、関東でも良く知られた有名な話であった。ダゴベルト氏は、ロメロをチリレストランにしばしば招いたという。僕も神戸に住んでからは、ダゴベルト一家とは親しくさせて頂いている。そして、本多氏からは、神戸とパラグアイとの友好関係に接していたことを聞いた。それ故に、日本代表がR16でパラグアイと戦うことに、試合前、特別な感慨があると伝えてくれたのである。

 ロメロは、その後、ブラジルのフルミネンセで大活躍、ブラジル人からも”ホメリート(Romerito)”のニックネームで崇拝された。そのロメロが、日本に残りたいとダゴベルト氏に頼んだことがあった。日本が気にいったことが、最大の理由であった。当時、僕は、読売サッカークラブの若輩者に過ぎなかったが、ダゴベルト氏と懇意にしている恩師的なジャーナリストからロメロの話を聞いた。読売クラブが契約できるとは思わないが、話だけは伝えておくというものだった。プロの時代ではなかった日本では、絵に描いた餅のようで実現は不可能であった。

 パラグアイの1万人ほどの日系人は、複雑な気持ちでパラグアイの日本との試合を迎えていたという。今は、心おきなく日本を含めてではなくパラグアイを純粋に応援できることになった。次回、ブラジル開催のワールドカップでは、現在、150万人の日系人がいる。

日本代表のR16での敗退は残念であるが、4年後、ブラジル日系人とともに日本代表を応援できる至福を味わいたいと思えるようになった。

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