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2010年8月

「爽快な気分」

2010/08/31(火)

 先日、奈良県にあるYANAGI FIELDに出掛けた。ヴィッセル神戸時代のクラブメートで、現在、YF NARATESOROのジュニアチームの監督をしている野呂顕人氏から”ACミラン・ジュニアキャンプを観てみませんかという誘いを受けたからである。ACミランのコーチたちの参加者である子供たちとのスクールは、とても明るく陽気な印象を感じさせてくれた。

 一ヶ月ほど前、僕は野呂ファミリーと夕食をともにした。理由は、野呂ファミリーの次女、央(まなか)ちゃんと僕の誕生日が一緒で、誕生会を開いてくれたのである。二歳になった央ちゃんとふたつ年上の葵ちゃん、野呂夫人の圭那子さんと野呂氏と僕とで、娘さんたちの大好きなアンパンマンをテーマにしたイタリアンレストランでプチパーティを開催した。野呂ファミリーから、とりわけ、ふたりの娘さんからアンパンマンの凄さと登場するキャラクターが無尽蔵に出現してくることを知らされた。

 ACミラン・ジュニアキャンプが終了して、僕は、野呂氏から浜田満氏を紹介された。FCバルセロナとACミランのキャンプを日本国内で展開させている人物であって、株式会社アメージング・スポーツ・ラボ・ジャパンの代表である。三十代半ばの青年と、昼食を摂ることになった。食事をしながら、初対面であるにもかかわらず僕はとても爽快な気分を味わい始めた。

 浜田氏は、今に至るまでの半生と実情と未来を語ってくれたのであるが、バイタリティにも感心したが、同氏もマルチリンガリストであることを知ったことで、僕にとっては楽しい時間を持つことになった。海外では、多くのマルチリンガリストとは出会っていた。以前、契約交渉で出会った12ヶ国語を話すというトルコ人のフェネルバーチェ会長のアリ・セン氏の存在も、頭の中をよぎっていた。現在はチェルシーのGMをしていると記憶しているが、PSVアイントフォーヘンのGM時代のデンマーク人、フランク・アーネセンとの付き合いも思い出していた。良き思い出も、苦い体験もさせてもらった人たちである。

 マルチリンガリストの人たちと話をしていて、いつも感じることがある。それは、固定観念に陥ることのない発想の意外性、そして、視野の広さである。僕にそれが備わっているのかは解らないが、他人と違った価値観があることを指摘されることもある。僕は、浜田氏と楽しく語らいの時間を持ちながら、マルチリンガリスト故に理解し合える共鳴のようなものを恣意的に感じていた。そして、僕が持ち得ていないものを感じることもできた。

 アンパンマンの世界は、登場するキャラクターが無尽蔵だと知らされて、そして、その後、浜田氏というマルチリンガリストと出会った。感性というものは、人工的に作為的に作れるものではないと思っている。このような出会いができた幸運な機会に大いに感謝し、今後の糧としたいと思えた。アンパンマンの存在を少しは理解して、そして、日本人としてのマルチリンガリストに出会えたことで、物事を観る目を更に養いたいと思えた。爽快な気分を味会うことができた、夏の一日であった。

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「この間、感じたこと」

2010/08/27(金)

 このブログを始めたことから知人を介して講演の依頼が舞い込んだ。そして、先日、大阪の梅田で稚拙ながら講演を行った。株式会社ジェイ・エム・エーと株式会社船井総合研究所の共催で、ホテルのマネージャーの方々を対象としたものだった。自分に用意された演目は、「組織力UP(チームプレイ)の極意と指導法」というものであった。演目が難し過ぎると思って、僕は「モチベーションとリスペクト」をテーマとして語らせて頂いた。

 それぞれのホテルで重大な責務を抱く立場の方々であったので、リラックスして頂きたいとは思ったが、笑いを取るということはできなかった。この方々にとっては、自分自身の体験は特別なことで、多くの人が体験し得ないことと思われていたので、ストレートに体験談から何かを感じて欲しいという価値観で進めさせて頂いた。

 僕は、自分の学生時代の心を打たれたエピソードとアルゼンチン代表でFCバルセロナのメッシのコメントを、是非とも紹介したいと思っていた。

 現在のUEFAチャンピオンズリーグの前身であったヨーロッピアン・チャンピオンズ・

カップの時代であるが、ある高名な監督が素晴らしく忘れることができない発言をしていた。当時、僕が理解できた言語は日本語と英語しかなかったのだが、どちらの言語で読んだものかは記憶にない。まだ、僕が高校生であったからである。従って、どのクラブに所属していた監督名かも名前も思い出せない。

 その監督は、次のように表現した。「チャンピオンズ・カップに優勝することは、月へ自転車で行くことよりも難しい。」 当時の僕にとっては、どのような格言やことわざよりも強烈なショックを受けたことばであった。

 聴講している方々に語っていて、僕は気が付いたことがあった。講演だから、ひとに何かの関心や感銘を与えなければならない。しかし、僕は、この話をしながら、あることに気が付いた。名言には違いないけれど、この監督は、難しいことへの挑戦を自らのモチベーションとすることにし、選手やコーチングスタッフにも発言することによってセカンドハンドではあっても意志を伝えたかったのではないかと。

 誰でも、目標を高くして努力する。しかし、可能な範囲内のことであるべきである。この監督は、客観的には優勝候補であろうとなかろうと、ゴールはチャンピオンになることであると啓発していたのではないかと思うようになった。

 メッシは、少年時代、アルゼンチンからスペインに渡る際のことを深遠なことばで表現している。「電車が、僕の前で止まったんだ。僕は、乗るべきであると思ったよ。また、その電車が僕の前で止まるとは限らないから。」 チャンスは逃してはいけないし、チャンスをものにしないといけないというメッシの哲学、精神であると思った。それは、得点力と相手を翻弄するプレーに表れていると思う。

 モチベーション、それは、対象となるものを、僕らならばサッカーをとことん好きになること、そして、サッカーをリスペクトし追求することで、自分たちが活かされるものと思えてしまった。人生、楽しむために生きていることを、講演をしながら感じていた。

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「賀川 浩さん」

2010/08/18(水)

  この度、財団法人日本サッカー協会から、親しくお付き合いをさせて頂いているジャーナリストの賀川浩さんの「日本サッカー殿堂」入りが公表された。率直に、素晴らしい朗報に接したものと思っている。電話で「おめでとうございます。」と伝えたところ、「別に、どうしたことではないですよ。」と、余りにも謙虚に応えられてしまった。以前から、賀川さんはどのような人に対してもリスペクトされて対応されるとよく耳にしていたが、今回もその人柄に触れさせて頂いてしまった。

 賀川さんとサッカーの話をさせて頂く時は、必ず、内容や時代が正確でしかも試合の一シーンでも鮮明に記憶されていて想像しやすいものと感じていた。国内外のサッカーに精通されていて、尚且つ、ワールドカップやヨーロッパ選手権の取材回数は驚かされる程でありながら、僕にとっては最も関心を持たされたことがあった。それは、賀川さんからも説明を受けたコパ・デ・オーロ(Copa de Oro)。賀川さんから、第一回ワールドカップが1930年にウルグアイで開催されたことを記念し、50周年の19801230日から81110日までウルグアイに優勝国のみ集めて開催されたことを知った。実は、コパ・デ・オーロについては、賀川さんの取材体験を伺っていてハッとしたことがあったからである。

 当時、世界中の注目を集めたコパ・デ・オーロの取材に出かけた日本人ジャーナリストは、賀川さん一人であったとのこと。そして、ブラジル代表、セレソン(Seleção)を率いていた監督がテレ・サンターナ(Tele Santana)氏であり、結果的に、賀川さんがテレ・サンターナ氏の独占取材ができたことの話に興味が増したのである。試合終了後、監督の記者会見は行われたが、スペイン語やポルトガル語が使用されていたという。戸惑いながら記者会見場にいる賀川さんを見つけて、テレ・サンターナ氏は賀川さんとお互いに理解できる英語で取材に応じたという話である。僕は、賀川さんの熱視線にテレ・サンターナ氏が特別なことを感じて実現した素晴らしい話と思い感心してしまったのである。

 その後も、賀川さんから当時のセレソンの話を伺う機会を持てた。賀川さん曰く、「1982年ワールドカップ・スペイン大会のセレソンの原型を見た思いをした。」とのことである。「ジーコは怪我でいなかったが、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、セルジーニョなどなど」と次つぎから懐かしい選手名とその特徴を語って下さった。僕も、82年のテレ・サンターナ氏のセレソンは最もファンタスティックなチームであると今でも思っているが、賀川さんはコパ・デ・オーロで特別な印象を持たれたそうである。

 テレ・サンターナ氏は、1992年、93年、サンパウロFCをトヨタカップで二連覇させた。この時も、賀川さんはテレ・サンターナ氏の取材をしたこともあることを伺ってもいる。賀川さんとテレ・サンターナ氏との色々な接点を伺っていて、羨ましくも感じてしまった。

  実は、僕にはテレ・サンターナ氏と出会える機会がなかったのである。しかしながら、僕が世界中で最も優れた代表監督は誰かと問われる時、いつもテレ・サンターナ氏と応えている。セレソンで選手として、サンパウロFCでコーチとして付き合ったことのある僕の親友ジョゼ・オスカー・ベルナルディ(José Oscar Bernardi)氏も同様に応えていると聞いている。そして、僕の父親的な存在の恩師ジノ・サニ(Dino Sani)氏も、ライバルであった一つ年上のテレ・サンターナ氏以外に代表監督の資質の高い人物はいないと語っていたことを思い出した。

 今回の賀川さんの殿堂入りの報に接して、賀川さんの人柄や情熱がジャーナリスト人生を豊かにしてきたものと思う。今後も、賀川さんとのお付き合いからより蘊奥の世界に立ち入りたいと感じた。

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「親日家」

2010/08/17(火)

 昨今、オーストラリア代表監督としてホルガー・オジェック氏が就任した。オジェック氏は、二度、浦和レッズの監督を務めたが、最初に監督として招聘するために交渉し契約した時のこと、一緒に活動していた時のことが思い出された。当時、浦和レッズを強くするために年少の僕は、強烈にオジェック氏と議論を重ね、結局は価値観を一致できることになった。

 オジェック氏は、DFB(ドイツ・サッカー連盟)のコーチングスクールを未だに破られていない高得点でライセンスを獲得したと聞いている。いかつい顔で怖いと思う人もいるとは思うことはあるが、実は、芯は優しい人物だ。同氏の評価はいろいろと分かれると思うけれど、クラブチームよりも代表チームの指揮を執る方が能力を発揮するように思えてならない。1990年のイタリア・ワールドカップで、ドイツは優勝を成し遂げた。監督はフランツ・ベッケンバウアー氏であったが、参謀格のオジェック氏の貢献度は計り知れないものと思っている。同氏は、カナダ代表をCONCACAF(北中米カリブ海サッカー連盟)Gold Cupでアメリカ合衆国やメキシコと争いタイトルを獲らせ2001年に日本で開催されたコンフェデレーションズカップに出場させている。今般、同氏は三度目の代表チームに関わることになった。サッカールーズ(Soccerroos)、オーストラリア代表を率いて、来年のアジア・カップ優勝、2014年のブラジル・ワールドカップ、そして、その前年のコンフェデレーションズカップへの出場をターゲットにしている筈だ。

 サッカールーズの多くの選手たちは、ヨーロッパのクラブでプレーしている。経験も環境も、日本よりは先を進んでいる。これらの選手を使いこなすことができれば、かなり強いチームを作れるものと推察している。僕は、個人的にも同氏との付き合いが深い。とてつもなく、拘りを持つ人だと思っている。頑固な面がネガティブに報道されてしまうこともあるが、計算された施術を実践するタイプであると思っている。

 同氏は、日本食と日本文化に極めて造詣が深い。一度、両国の国技館に相撲を観戦に行ったことがあった。日本人の僕に、同氏は力士の特徴や取り組みの予想を教えてくれていた程、大の相撲ファンであって、贔屓の力士もいた程だ。そして、日本食にも目がなかった。外国人にありがちな当たり一片のお寿司とかしゃぶしゃぶという類の趣向ではなく、豆腐料理に執心していた。同氏がカナダ代表監督時代、エリザベート夫人とモントリオール市に在住していた時のことをよく聞かされた。豆腐好きの同氏のために、夫人は食材をスーパーマーケットで手に入れてしばしば豆腐を作っていたというのだ。僕には、豆腐の作り方など知らないし作れる術も持ち合わせていない。ドイツ人夫婦が協力して、モントリオールで豆腐作りをし食を堪能していることを聞いて驚かされたことを思い出した。オジェック氏が、拘ってサッカールーズを指揮することに興味を抱くとともに、日本やアジアを良く知る同氏のチーム作りは日本や韓国のライバルとして大きく立ちはだかるものと敬意を表したい。

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「2014年に向けて」

2010/08/12(木)

 今週、世界各地で国際親善試合が行われた。スペイン代表も、カレント・チャンピオンとして無難なスタートを切ったし、監督不在のアルゼンチンも勝利した。そのような国際親善試合の中で、アメリカ合衆国がホーム、ニュージャージーで戦うブラジル戦を楽しみにしていた。現地時間では、10日の夜、新生セレソンは2-0の勝利、新監督マーノ・メネゼスの門出は評価されるべきものであった。

 デビューを飾った若い選手が多く、そして、攻撃的なサッカーが戻ってきた。所詮、親善試合のひとつと高く評価をしない人々もいるが、新しいチームとして活動し始めて練習日も限りなく少なかったけれども結果を残したことは称賛に値するものと思う。メネゼス監督は、試合開始からミスが多かったが、期待している若いタレントたちはその能力を見せてくれたとコメントしている。

 18才のネイマール(サントスFC)は、デビュー戦で初ゴールを決めたし多くのチャンスを作り出していた。イングランドのチェルシーからのオファーも、サントスFCは現時点では見事に断っている。20才のアレシャンドリ・パト(ACミラン)も、期待に応えて得点した。

ポルトガルのベンフィカ所属のセンターバックのダヴィド・ルイスも初出場を果たし、安定したプレーを見せつけた。南アフリカのワールドカップに召集されなかったが、ブラジル国民から期待されていたメンバーたちである。僕は、そのようなメンバーの中でも、とりわけガンソに注目している。

 ガンソ(Ganso ガチョウの意味)は、パウロ・エンリキ・シャールガス・ジ・リマ(Paulo Henrique Chargas de Lima)、サントスFC所属のMF19891012日生まれでパトと同じ年である。ネイマールなどと同様に、サントスFCのユースから成長してきた選手のひとり。次代のジダンとも称されている左利きの大柄な選手であるが、テクニックに優れ視野も広くゲームを作り出す能力は素晴らしく高い。メディアはマーノ・メネゼスの時代と表現し、攻撃的でスペクタルなサッカーを称賛し始めた。ガンソは、その戦術を巧みに実践する中心選手として世界中にその名を広めた。

 ブラジルでは、背番号10”は特別なものである。ペレが16才で代表デビューした相手は、アルゼンチン。サントスFCのペレは、デビュー戦で初ゴールしチームの勝利に貢献した。ペレがセレソンの”10”を背負って以来、長年に渡ってサントスFC所属の選手がセレソンの”10”を身に付けることはなかった。弱冠、20才のガンソはセレソンの背番号10”の持つ意味の重責を感じながらプレーをしたという。得点を挙げることはできなかったが、卓越したテクニックで多くの得点チャンスを作り出す創造性を見せて自信を掴んだと発言してもいる。2014年のブラジルでのワールドカップに向けて、各国代表もスタートを切った。日本代表も、香川、内田、長友、本田などの若いタレントが出てきたし、そして、その下のジェネレーションの選手たちの台頭をも大いに期待したいと思った。

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「足首」

2010/08/09(月)

 テクニックやスピードに優れる選手の身体的特徴のひとつに足首の細さにあると、ブラジル人監督に聞いたことがあることを思い出した。先日、ブラジルに詳しい日本人ジャーナリストと歓談していた際、このような話題になった。そのブラジル人監督とは、三回のワールドカップでブラジル代表のキャプテンを務めたジョゼ・オスカー・ベルナルディだ。今は監督業をしていなく自身が設立したクラブの経営と選手育成に専念している。現在、セレソンに選ばれているイングランドのリバプール所属のボランチ、ルーカスを発掘し育てた人物でもある。僕とは、ライバル関係にある他クラブ同士の読売クラブと日産自動車の日本リーグ時代からの親友である。

 オスカーはセンターフォワードでプレーしたい希望があったが、センターバックでプレーしなければレギュラーになれないことを悟って世界屈指の選手となった。そのオスカーが選手の能力を見極める術の多くのひとつに、とりわけ黒人選手の足首に注目したのであった。その二日後、僕はカタールでコーチをしているアウミール・ドミンゲスと一時間半、インターネット通信で会話をした。オスカーは、ふたりの共通の友人でもあることから、このような話をしていて、必然的にセレソンの話題に変わっていた。

 セレソンの新監督、マーノ・メネゼスがフィジカルコーチとしてサンパウロFCのカルリーニョス・ネーヴェス(Carlinhos  Neves)を指名したことで話は盛り上がった。新生マーノ・ブラジル代表は、明日、アメリカ合衆国と初めての親善試合を行う。そのマーノがコーチとして指名したシデネイ・ローボ(Sidnei Lobo)とは7年間、一緒に監督とコーチとして活動していたので疑問を感じることはなかったが、カルリーニョスとマーノは同じクラブで仕事をしていなかったことから疑問を抱いていた。解ったことは、マーノは他クラブのフィジカルコーチの評価もしていたことだった。シデネイとカルリーニョスは、選手とフィジカルコーチの関係があったので、それが理由と思っていたのだが。事実は、カルリーニョスの能力を重んじての起用であったことを知った。

 カルリーニョスは、フィジカルコーチとして毎年クラブにタイトルをもたらしていた。フィジカルコンディション、リハビリだけではなく、選手の心理を巧みに掴んでいたことが実績を積み重ねていたという。そして、カルリーニョスをより知る機会を得ることができたのは、アウミールとカルリーニョスが、二才からの幼馴染の親友であるとのことを知ったことからである。パラナ州都クリチーバ市から300km離れた人口5000人の小さな町、フィゲイラ(Figuira)でふたりは始終お互いの家を行き来していたという。カルリーニョスのセレソンコーチの就任後、アウミールとカルリーニョスの電話で話をする機会は極端に増大したという。明日のセレソンとアメリカの親善試合に興味を抱いているが、実は、僕も何度もサンパウロでカルリーニョスと出会っていたことを思い出していた。サッカーの世界は、著しく狭い。時差はあるもののアメリカとカタールと日本とで、セレソンの試合を肴に明日またアウミールと僕はインターネット通信で、楽しい話題を語り合えるものと期待している。アウミールからは、カルリーニョスの語るセレソンの内側も知れるかもしれないし。サッカーは、人と人を繋げる素晴らしいものであることを再確認してしまった。

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「楽しく、美しく、攻撃的に」

2010/08/05(木)

南アフリカ・ワールドカップでブラジル国民は落胆させられてしまったが、今週は、一部のクラブ・サポーターの歓喜が続いている。

 クラブ・ワールドカップ出場権を賭けたコパ・リべルタドーレス(Copa Libertadores)の準決勝のひとつが、チリのサンチアゴで83日、22:15キックオフで行われた。第一戦にアウェイで1-1で引き分けていたチリのウニヴェルシダー・デ・シレ(Universidad de Chile)は、ホームにメキシコのシーヴァス(Chivas)を迎えて絶対的なアドバンテージに立っていた。

しかしながら、サポーターが暴れる程の0-2の敗戦で決勝進出を果たせなかった。ところが、この結果は、もうひとつの準決勝、サンパウロFCとインテルナショナウ(ポルト・アレグレ)にとっては素晴らしい朗報になった。メキシコのクラブは招待されてリべルタドーレスに参加している南米サッカー連盟加盟国ではないので、メキシコのクラブが優勝してもクラブ・ワールドカップの出場資格はないのである。従って、サンパウロFCのホーム、モルンピー・スタジアムで今晩(ブラジル時間)で行われるインテルナショナウのどちらかがクラブ・ワールドカップの出場権を獲得することになる。第一戦は、インテルナショナウが1-0で勝利しているが、熾烈な展開が予想される。

 一方、昨夜(ブラジル時間)、コパ・ド・ブラジル(Copa do Brasil、ブラジル・カップ)の決勝がバイーア州サルバドール市で行われてサントスFCが優勝を決めた。ホーム・アンド・アウェイで行われるこのカップ戦、サントスFCはホームで2-0の勝利していた。対戦したヴィットーリアに1-2で敗れたものの、得点数が上回り、6度目のコパを制した。このタイトルを獲得したサントスFCは、パルメイラスと並び全国レベルのタイトル獲得最多回数に並んだ。先に発表されたブラジル代表に初めて選出された、ネイマールは11ゴールを挙げて得点王に。パウロ・エンリキ・ガンソも、大活躍した。昨シーズン、ヴィッセル神戸に所属していたマルセウも後半出場、優勝メンバーのひとりとなっている。ブラジルでは、全国レベルでの大会が開催できない歴史が続いていたが、1989年から開催されたコパ・ド・ブラジル、1967年から行われているブラジル選手権(ナショナルリーグ、Campeonato Brasileiro)が国家レベルの二大タイトル。サントスFCは、九つ目のタイトルを加えたことになる。そして、来シーズンのコパ・リべルタドーレスの出場権も獲得した。

 しかしながら、サントスFCが多くのタイトルを獲得していた時代は遠く遡り、ペレが活躍していた時代のものであった。以前、サントスFCのホームスタジアム、ヴィラ・ベルミーロ(Vila Belmiro)を訪ねた時のことが思い出された。たくさんのトロフィーやカップの展示された部屋を案内されたのであるが、ペレのチームメートであったチチーに紹介されていた。チチーもそれらを獲得した選手のひとりであったことで、僕に熱く説明してくれたものと思っている。

 サントスFC監督のドリヴァウ・ジュニオール(Dorival Junior)は、若い世代が成長しているチームを率いていることに自信のこもったコメントを残した。「サントスFCの優勝は、ブラジルサッカーにとってとても重要なことだ。選手が楽しくプレーして、そして、美しく攻撃的なサッカーを見せられている。」サントスFCから若い攻撃センスを持った4選手が選ばれているセレソン、ブラジル代表の今後も、注目を受けることは間違いないと感じた。

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「絆」

2010/08/02(月)

先週、枚方FCの宮川淑人氏主宰の「ワシらの会」で初めて知り合ったひとと土日を過ごした。アミティエ・スポーツクラブ(Amitie Sports Club)の代表を務める赤尾修理事長に誘われて、アミティエのトップチームと神戸セカンドチームの公式戦を観戦することになった。トップチームは関西リーグの二部に所属していて、JFL昇格を賭ける全国社会人大会の出場権を得られるか否かの大切な試合。そして、神戸セカンドは神戸市リーグ一部のリーグ戦のひとつであった。

 今まで、僕にとってはこのようなレベルの試合を見る機会はなかったので、少しアングルを変えて観てみたいとおもった。アミティエとは、フランス語で友好を意味することは知っていたが、赤尾理事長も感動するような状況に一緒できたことは僕にとってもひとつの感動であった。試合は、観ていて楽しいものであっと思えたし、ピッチの中でプレーする選手たちとそれを率いる監督たちの純粋性に清々しさを感じさせてくれたからである。僕にとっては、面識のある選手も監督もひとりもいなかった。選手たちは、アミティエのサッカースクールの指導者か法人の職員で登録上アマチュアである。

 トップチームは、残念ながら、ボールを繋ぐ良いサッカーを示しながら延長戦で敗れてしまった。翌日、監督一年目の西村俊寛氏と神戸セカンドの試合を観ながら歓談した。「所詮、PK戦にもつれたとしても負けていたと思います」と、西村監督が僕に語っていた。僕には、勝てた試合内容であるが、ゲームを知りづくしたベテラン選手がチームにひともいない若いチームが故にリズムを変えられなかった結果ではないかと思っていた。西村監督も、それが理想ですが、いまのチームで戦わなければならない。負けた責任は、自分にあると責任感の強いことばを聞いた。アマチュアチームの監督ではあっても、プロ意識のあるひとであると感じた。

 僕が、驚いたことは他にもあった。試合開始前から、少ないなりにも、スクール生とその家族がアミティエのユニフォームを着て応援に駆けつけていた。試合中の応援には驚くことはなかったが、試合後、選手たちとスクール生と家族とで集団で写真撮影をするほど、健闘を讃えていた。友好を超えたのようなものを感じてしまった。

 Jリーグや海外のプロでは、子供たちにとって選手たちはとてつもなく手の届かないところにいるスターである。しかし、アミティエでは、選手たちはスクールのコーチであり日常的な身近なサッカーを教えてくれるお兄さんたちなのだ。そのお兄さんたちがプレーする試合を迷いなく応援していた。そして、選手たちは、子供たちに素晴らしいプレーを見せなければというプレッシャーの中で戦っていたのである。これは、大きな金額やTV放送も発生しないけれど、一種のプロであると感じることに迷いはなかった。

アマチュア選手たちに子供たちが応援する光景を見ていて、子供たちにとってはお兄さんコ―チであるがメッシやフォルランのようなものなのかもしれない存在なのかもとも思えた。この子供たちには、世界的に活躍する未来がそこから始めているのかもしれないと思えた。理由は、簡単である。真剣に、お兄さんコーチたちのプレーを熟視していたからである。

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