「賀川 浩さん」
この度、財団法人日本サッカー協会から、親しくお付き合いをさせて頂いているジャーナリストの賀川浩さんの「日本サッカー殿堂」入りが公表された。率直に、素晴らしい朗報に接したものと思っている。電話で「おめでとうございます。」と伝えたところ、「別に、どうしたことではないですよ。」と、余りにも謙虚に応えられてしまった。以前から、賀川さんはどのような人に対してもリスペクトされて対応されるとよく耳にしていたが、今回もその人柄に触れさせて頂いてしまった。
賀川さんとサッカーの話をさせて頂く時は、必ず、内容や時代が正確でしかも試合の一シーンでも鮮明に記憶されていて想像しやすいものと感じていた。国内外のサッカーに精通されていて、尚且つ、ワールドカップやヨーロッパ選手権の取材回数は驚かされる程でありながら、僕にとっては最も関心を持たされたことがあった。それは、賀川さんからも説明を受けたコパ・デ・オーロ(Copa de Oro)。賀川さんから、第一回ワールドカップが1930年にウルグアイで開催されたことを記念し、50周年の1980年12月30日から81年1月10日までウルグアイに優勝国のみ集めて開催されたことを知った。実は、コパ・デ・オーロについては、賀川さんの取材体験を伺っていてハッとしたことがあったからである。
当時、世界中の注目を集めたコパ・デ・オーロの取材に出かけた日本人ジャーナリストは、賀川さん一人であったとのこと。そして、ブラジル代表、セレソン(Seleção)を率いていた監督がテレ・サンターナ(Tele Santana)氏であり、結果的に、賀川さんがテレ・サンターナ氏の独占取材ができたことの話に興味が増したのである。試合終了後、監督の記者会見は行われたが、スペイン語やポルトガル語が使用されていたという。戸惑いながら記者会見場にいる賀川さんを見つけて、テレ・サンターナ氏は賀川さんとお互いに理解できる英語で取材に応じたという話である。僕は、賀川さんの熱視線にテレ・サンターナ氏が特別なことを感じて実現した素晴らしい話と思い感心してしまったのである。
その後も、賀川さんから当時のセレソンの話を伺う機会を持てた。賀川さん曰く、「1982年ワールドカップ・スペイン大会のセレソンの原型を見た思いをした。」とのことである。「ジーコは怪我でいなかったが、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ、セルジーニョなどなど」と次つぎから懐かしい選手名とその特徴を語って下さった。僕も、82年のテレ・サンターナ氏のセレソンは最もファンタスティックなチームであると今でも思っているが、賀川さんはコパ・デ・オーロで特別な印象を持たれたそうである。
テレ・サンターナ氏は、1992年、93年、サンパウロFCをトヨタカップで二連覇させた。この時も、賀川さんはテレ・サンターナ氏の取材をしたこともあることを伺ってもいる。賀川さんとテレ・サンターナ氏との色々な接点を伺っていて、羨ましくも感じてしまった。
実は、僕にはテレ・サンターナ氏と出会える機会がなかったのである。しかしながら、僕が世界中で最も優れた代表監督は誰かと問われる時、いつもテレ・サンターナ氏と応えている。セレソンで選手として、サンパウロFCでコーチとして付き合ったことのある僕の親友ジョゼ・オスカー・ベルナルディ(José Oscar Bernardi)氏も同様に応えていると聞いている。そして、僕の父親的な存在の恩師ジノ・サニ(Dino Sani)氏も、ライバルであった一つ年上のテレ・サンターナ氏以外に代表監督の資質の高い人物はいないと語っていたことを思い出した。
今回の賀川さんの殿堂入りの報に接して、賀川さんの人柄や情熱がジャーナリスト人生を豊かにしてきたものと思う。今後も、賀川さんとのお付き合いからより蘊奥の世界に立ち入りたいと感じた。
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コメント
私は素晴らしい先輩達とお付き合いさせてもらてっていることに感謝してます。
投稿: Danny | 2010年8月23日 (月) 00時00分