ブラジルでは、27ある各州のリーグ戦が終了し、20日からCampeonato Brasileiro(ブラジル全国選手権)が始まった。友人のジョゼ・オスカー・ベルナルディのトレーニングセンターでは、サンカエターノとバイーアが合宿をしていた。バイーアは、1998年のフランス・ワールドカップで日本代表が戦った時のジャマイカを率いていたレネ・シモンエスが監督をしている。オスカーから、面白い話を聞けた。
一方、ボタフォゴのコーチをしているアウミール・ドミンゲスからも連絡を貰った。自分も付き合いのあるウルグアイ代表のキャプテンであった、オスカーとサンパウロFCでCBとして活躍したダリオ・ペレイラが勤務している、サンパウロ市近郊にあるバルエリ市にあるDeportivo Brasil Trafficが経営しているトレーニングセンターでパルメイラス戦の調整をしているとのことであった。
プロのシェフが用意してくれる体調に良い料理はもとより、清潔な宿泊施設と5面から10面はある素晴らしく管理された天然芝のピッチで準備に余念がないことは自然に感じられた。
このような話をブラジル人たちの友人から聞いていた頃、Football Japanの社長である本多克己氏とランチを取る機会があった。その時に、極めて興味深く、面白い話を聞くことができた。1979年に、日本は、ワールドユースを開催した。現在のFIFA U-20ワールドカップである。ディエゴ・マラドーナやラモン・ディアスが活躍し、アルゼンチンが優勝したことで知られている。
実は、この時、パラグアイ代表が注目を浴びていた。中心選手は、Juan Cesar Romero(ホアン・セザール・ロメロ)。後に、ブラジルのフルミネンセで大活躍し、Romerito(ホメリート)のニックネームでブラジル人からもリスペクトされた中盤の選手である。この大会の期間中に、自分は思いがけない連絡を貰ったことを思い出していた。神戸にあるチリ・レストランのダゴベルト氏から間接的に連絡を貰ったのであるが、ロメロ自身が日本でプレーしたいというものであって、当時、自分が勤務していた読売サッカークラブと契約できないかというものであった。希望の年俸は高いものではなかったが、プロのない時代の日本では実現することはあり得なかった。
ロメロの能力は非凡なものであったから、今でも記憶に残っている。前述の本多氏から、思いも掛けない話を聞いた。当時、練習ができる施設は粗末であった日本で、パラグアイ代表は六甲中学で練習をしたとのことである。練習後のグランドで、トイレの水をシャワー代わりに使っていたことを聞いた。ところが、本多氏にとっては、一生、忘れられない出来事を経験したとのこと。選手の人数に限りあるパラグアイ代表の監督が、六甲中学のサッカー部員を練習に参加させたということであった。
時に、予想もできないチャンスというものがあるものである。とても興味深いこととして、楽しく話を聞くことができた時間を持てた。昨今、色々な人々とブラジルのコンフェデレーションズ・カップとワールドカップに行こうと話が盛り上がり始めた。ブラジルの友人たちは協力してくれると約束してくれているので、通常ではあり得ない機会を提供してみたいと思うようになった。
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