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2013年8月

火星に行った日本代表

2013/08/26(月)

 2013年8月24日、僕は、1968年10月24日にタイムスリップしていた。NHKがメキシコ・オリンピック、3位決定戦で日本代表が銅メダルを獲得したフルタイムの映像を放送することになったからである。45年もの歳月を経て、日本国内で初めて紹介されるのである。

 自宅で楽しもうと考えていたところ、僕も会員であるサロン2002の本多克己氏から上映会を実施するとの連絡を貰った。当時、高校2年生であった僕にとっては、知らないことを聞けることを楽しみに感じて、会場に行った。土地勘のない芦屋が会場、道に迷い、大汗をかいて時間に間に合った。目的は、親交のある賀川浩氏の詳細な当時の話を聞けることにあった。そして、やはり、親交のある細谷一郎氏が解説のひとりとして、そこにはいた。

 僕が読売サッカークラブ入りしてサッカー界で活動し始め、メキシコ・オリンピック当時の長沼氏、岡野氏、平木氏、丸山氏、選手の方々とお付き合いができるようになったのは、当時から十年を過ぎた頃からであったと思う。協会の要職にあったり、ライバルチームの監督になっていたので、今回、当時のプレーを見ることができて感慨深いものがある。

 賀川氏の適切で正確な記憶に基づく話により深く興味が増し、細谷氏が最終選考のひとりであったことを知らなくて興味が更に倍増した。釜本邦茂氏のワールドクラスレベルのストライカー、杉山隆一氏の瞬間的なものも含めた速さ、鎌田光夫氏、可愛がっていただいた宮本征勝氏、後に、浦和レッズで上司であった森孝慈氏、横山謙三氏ほかのディフェンスも、大きなインパクトを感じた。

 高校生ながら洋書を読みあさっていた僕は、釜本氏と横山氏がドイツのクラブを中心に、杉山氏がアルゼンチンのクラブからオファーを貰っていたことを知っていたが、賀川氏の話が多過ぎて紹介しきれないが、釜本氏の話で初めて聞くことがあったので、面白かった。
1966年、ロンドン・ワールドカップでイングランドは優勝した。決勝の西ドイツ戦、ジョフ・ハーストがハットトリックを成し遂げ、ハーストの名は世界に轟いた。

 賀川氏から、日本代表がオーストラリアに遠征した時、3戦して1勝1分1敗であったそうであるが、賀川氏の友人であるオーストラリアの著名な記者が、アジアにもハーストと同じレベルの選手がいる、カマモトだとして記事を書いたことを聞き、新鮮にも感じた。実は、僕には大好きなライターがいる。イングランドのBrian Granville(ブライアン・グランヴィル)だ。彼が、1969刊の本の中の一項目で”I was born too early.”、早く生まれ過ぎてしまったね。釜本氏を7ページに渡り特集した。高校生の僕にとっては、世界中のスーパースターの仲間入りをしたものと実感した。後に、恩師的な存在の牛木素吉郎氏が代筆したことを知った。釜本氏を巡るメディアは、凄まじく期待するほどの新星の出現と捉えていたのであろう。

 メキシコのポゼッション率が高く、釜本氏の一発に戦術を取っていたのか、GK横山氏の俊敏なキックやフィードが僕には最も印象に残った。一つ年上の当時はブラジル人であった与那城ジョージ氏に、メキシコ・オリンピックの話をしてみた。何も記憶もないし、興味などなかったよ。ワールドカップは、別だけれどね。これが、当時のサッカー強国とその他との違いであったのかと思わされる。

 日本サッカーの父として知られるデットマール・クラマー氏は、メキシコ・オリンピック後、UEFAチャンピオンズリーグの前身、チャンピオンズカップでバイエルン・ミュンヘンの監督として連覇を成し遂げている。賀川氏の話では、西ドイツ代表選手を6名抱えてタイトルを獲れたことより、無名の日本代表が銅メダルを獲れたことの方が嬉しいと語っているとのこと。

 チャンピオンズカップに優勝することは、”月へ自転車で行くことよりも難しい”、とコメントした名監督がいたが、当時、サッカーがマイナーな日本は、メキシコでは、”火星に自転車で行けてしまった”、のではないかと思ってしまった。

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「U-18フットサル・フェスティバル」

2013/08/21(水)

 

 81日、2日、昨年に引き続き、グリーンアリーナ神戸カップU-182回フットサル・フェスティバルが開催された。親交の深い本多克己氏(株式会社SIX社長)が奔走、尽力して、NPO法人神戸アスリートタウンが県の連盟などの協力のもと主催したものである。

 

 サッカーとは異なる競技として捉えているが、ボールを使い、ゴールを挙げることでミニサッカーとして興味が深い。元々、ヨーロッパ、アメリカ、南米で様々なルールで5人制のミニサッカーは行われてきた。イングランドでは、シーズンオフに水を抜いたプールで行われていたし、ドイツでは体育館で行われていた。スペインやイタリアでも愛好されていたが、オランダで行われていたルールを原型にして、FIFAが統一ルールを確立したのが1994年。

 

 南米では、サロン・フットボールとして、1930年にウルグアイとブラジルで考案され、普及した。これが、フットサルとしての最古なものとされている。ボールのサイズも2号、ボールははずまず、テクニックとスピード、駆け引きと個の力は前提条件であった。

 

 1980年を少し過ぎた頃、僕は、日本サッカーリーグの選手達がサロン・フットボールで披露する足技と駆け引きに魅了されたことがある。セルジオ越後氏、与那城ジョージ氏、ラモス瑠緯氏始めとするブラジル出身の選手たちであった。当時、僕が所属していた読売クラブでは、合宿の折、体育館でサロン・フットボールを行ってもいた。その後、僕も、居住していた都市で長くサロン・フットボールに興じていたこともあった。

 

 FIFAが制定しているフットサルの世界最優秀選手賞に選ばれたことのあるポルトガル代表のリカルディーニョは、名古屋オーシャンズ時代、次元の違う華麗なパフォーマンスを見せてくれた。4回も世界最優秀選手賞に輝いているブラジル代表のファルカン(Falcão)は、FIFA認定の競技の中で、代表での得点数が337と記録されていて驚異的である。

 

 猛暑の最中、グリーンアリーナで観戦している僕は、ペットボトル片手に3時間ほど汗がひかなかった。決勝は、名古屋オーシャンズU-18が作陽高校に2-1で競り勝った。どちらのチームも、テクニック、スピード、コンビネーションなどに優れ、迫力のある試合であったと思う。

 

 そうした中、昨年のエンフレンテ熊本のように、勝ち続けはしないが興味を引き付けるチームを発見して楽しめた。レポナ滋賀である。フットサルだけではなく通常のサッカーでも重要な、足の裏を使う選手が非常に多く見られた。ドリブルやターンして個の勝負をしていて、快感であった。ファルカンもリカルディーニョも左利きであるが、レポナ滋賀の背番号15、左利きの山崎哲也君の柔らかいボールタッチ、駆け引きにも楽しませてもらった。

 

 Jリーグの誕生やフットサルのルール統一時を知らない世代が、成長している。本多氏が、フットサルのU-18の世代の普及、強化に努めたいと語っていることもあり、サッカーとともにフットサルも世界で活躍する時代が到来して欲しいと思った。

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